瞑想を日常で行えるようになったのが仏教の「観照」。
これは、客観的自己観察であるメタ認知を意識でなく無意識領域で行う状態。
神道にも似たような意識の使い方があって、こちらは「惟神」(かんながら)という。
いずれも無意識レベルに入った境地だけが瞑想ではなく、意識→潜在意識→無意識の
ラインの把握が瞑想だと理解すると自然にこちらに行く。
日常でやる瞑想は深く入るためでなく、この認知の把握のため。

瞑想が点でなく線であると理解すると、単にライン上をフォーカスし易くなる
だけでなく、意識が化学変化を起こす。
ウロボロスの蛇のようにラインが円になってさらには球になる、これは次元上昇
していくという比喩、その先にパラレルワールドの拡がりがある。
その過程で「観照」といって日常で意識、潜在意識、無意識がつながって
一体となり調和を保つ状態が現れる。

これは、変性意識が調和的に日常化したもので後は自然に意識進化のために
用意されていた生理的な仕組みも動き始める。
トーラス場が活性化して蝶形骨や松果体もアップを始める。
超能力を求めるなら悟性の開花を優先したこのやり方がおすすめ。

ポイントは無念無想(無意識領域)への参入までは瞑想に専念してきちんとやること。
それから瞑想を日常化する。
瞑想を日常化するというのはラインを認知して円にするということだから
潜在意識レベルで円にしてしまうと半端な円で魔境に入ってしまう。
無意識領域まで線を伸ばして、そのあとラインを認識、円にすると
日常を瞑想仕様にすることが出来る。
無念無想を明確に体験(禅では最初の悟り見性という)までは、日常と瞑想
は区別した方が良いが、体験した後は日常を瞑想にしていくべきということ。