本当は観念的ゲシュタルト崩壊と体性感覚的統合は同時に行われるのだけどね。
瞑想して言葉の羅列とイメージの想起を消していくと
完全に消えないまでも意識がそれらに囚われなくなる「ゲシュタルト崩壊」
状態になる。
そして深部触感である体性感覚に意識を乗せる。
この体性感覚は無意識に生命を維持する恒常性の反映だから
自律性を持っていて、この感覚自体に悟性がある。
だからそこで鬱ってしまうのはイメージレベルでの固着があるのだと思う。
言葉の想起は体性感覚の動性と親和性があって
呼吸で数息観を行い体性感覚の動性に言葉を乗せることで
他の言葉の羅列による想起から意識を逸らしてさらに数息を繰り返すうちに
数がゲシュタルト崩壊する。
イメージの方は体性感覚の質感と連動していて、自分が心地よいと感じる
触覚系の感覚を呼び起こすイメージを使う、これを繰り返すうちに
他のイメージは想起しなくなり、やがて心地よさが前面に出てイメージも消失する。
たぶん後者のプロセスが不十分だと思う。
体性感覚から入る気の領域=生命感覚は命を常に維持しているという点で
完全な感覚。
超越欲求というのは、自己を超えたさらなる想念の拡大ではなく
そのベースになる生命感覚への回帰願望、だから誰にでも平等にある。
そして存在している、ということはそれが完全に機能しているということ。