魏と関中・隴西の状況が分る論文。
蜀軍が近づいただけで3郡が寝返るぐらいだから、魏延の奇襲が実行され成功していれば、もっと反乱者は増えただろうね。

> 馬超が韋康を攻め殺した際、一度は曹操についた周囲の郡県は雪崩をうって馬超についた。
> オセロの石が一斉にひっくり返るかのような様は、郡県を支える著姓や各郡の領域内に潜む諸集団の存在が、強い自立的傾向をもっていたことを示唆する。
> 寝耳に水とされた蜀漢軍来襲を受けた「三郡叛魏」は、その延長線上にある。かつて韋氏政権を支えた天水の有力者たちは、馬超に断固と反抗し、曹操政権への支持を打ち出していた。ところが、この反馬超行動はあくまでかれらの主体的な選択に基づく行動なのであって、ほぼ独力で馬超を追い落とし曹操軍を迎えたのである。
> 時勢の判断によっていつでも変わりうる、不確かな親曹操・親魏の姿勢であった。
> 少なくとも天水太守の馬遵はそう考えていたからこそ、姜維らへの不信を露わにしたのではないだろうか。
> 諸葛亮の「北伐」を受けて、魏王朝の関隴支配がなお脆弱なものに過ぎないと露呈させられたのである。



曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次「北伐」 駒澤大学 並木淳哉
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36194/rsg087-03-namiki.pdf