劉備が天下統一できなかった最大の原因その5
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「6」ですね。
動画など見る限り、やはり曹純曹洪夏侯惇夏侯淵のような親族の存在がいないことが大きいような。
これだけでも四人だし。
他にも曹仁曹洪曹真夏侯覇でしょ。
どれだけ、親族の層が厚いのか。 わからねえ
孫一族や曹一族には、少なくとも軍を率いれる親族がいるのに
劉備には、なぜ他人の関羽や張飛なんだ >>5
恐らく身内、親族がいなかったから
その状況証拠は養子を異姓から貰っていること
後に魯公が娘の子を跡継ぎにしたことを批判されたように
劉備も本来なら同姓の養子を貰うべきだった
母方では血のつながりはあるらしいが、恐らく兄弟親戚皆死んだんだと思う
男系親族のどこからも養子を取れない状況だったという可能性もあるにはあるが
劉備の一族だとそこまで高位ではないからあまり考えにくい むしろ生涯に渡って天下を取れるチャンスは無かっただろ。せいぜいが地方の軍閥の長で、それは実際になしとげた。 折角ゴミスレが消えたのに立て直すな荒らし
三国雑魚は三国板でやれや >>6
曹家、孫家は身内親族多数なのに
こちらも異姓から養子貰ってる(曹真、孫河、etc...)
件について 劉家も、もっといたら良いのにね。
劉封くらいてのがな。
いたら良いというわけじゃないけれど、蜀の場合は、親族との関係の弱さが将の層の薄さにもなっているような。
関羽と張飛は、実は親戚だったりするのかな 曹操のところはそもそもただしんぞくで優秀だったというだけじゃないからね
曹操が董卓討伐に乗り出す以前から曹仁、曹洪は2,3千の私兵をそれぞれ養っているような有力な軍閥だった
夏侯惇、夏侯淵も一門の私兵集めたら500,600騎という騎兵揃えてしまえるぐらいの家
独立した勢力として立ち上がる時に1万近い私兵がいた曹操はその時点で特別 >>10
曹真の父は、董卓に追われている時に曹操だと名乗って処刑されたらしいから
遠い親戚じゃなくて可愛い孫に継がせようとした魯公が非難されたけど
劉備や曹操はそういう話がないんだよなあ 名声を蓄えて裸一貫で成り上がった劉備ってすごいんだな。それでも公孫さんとのコネがなければ埋もれていただろうが。 >>14
公孫瓚のコネで平原国の相〜陶謙から徐州譲られる〜のあたりがキャリアが上向いてきて曹操暗殺計画に巻き込まれなかったら曹操政権の3番手あたりにはつけたんじゃ >>16
掻かないでしょ。計画に捲き込まれてなかったら、当時の劉備自身は決して待遇悪くないからワザワザ曹操排除する理由がない。
公孫瓉から陶謙と渡り歩く内に少しずつ出世していって、漢皇帝を擁する曹操の下で更に朝廷で出世出来る チャンスだから小軍閥な劉備としてはオイシイ流れ。
まあこの計画に捲き込まれたせいで後々反曹の旗手への道が開け、巴蜀の辺境ながら称帝出来たのだから徒手空拳からの成り上がりとしては充分だったろうけど。 劉備が曹操配下に就きたかったのなら官渡戦直前にでも帰参すれば良かった筈。
史実ではそうしなかったのだから仮に曹操の下に居続けたとしても
官渡戦の前には袁紹に寝返っていたのではないか? 最近の創作だと劉備が董承から曹操暗殺計画持ち込まれても露骨に迷惑そうにするパターン出てきたよな
宮城谷三国志→暗殺計画持ち込れるも「曹操死んだらあんたらオワコンじゃん!馬鹿なの?死にたいの?」と呆れ返る
孔明のヨメ→暗殺計画持ち込まれるも「オレ、曹操とも上手くやってるしそんなん持ち込まれても困る」と困惑するも強引に引きずりこまれる 劉備が嫌がっても周りが曹操の対抗馬になる劉皇叔とほっとかんのだろうな 袁紹=amazon、Google
曹操=アリババ、ファーウェイ
くらいの差なのかな
曹操側は、もうちょっと落ちるか >>405
元徳ワラジと玄徳ムシロが売れなかったから 荊州を失ったのも大きいね
荊州からなら許都や洛陽も近かった 徐州の兵を駆って曹操を討伐。そのまま中原の民を安堵しつつ官渡で袁昭を破る。
↑
こりゃむりだ。まだ袁術のが天下に近かったといえる。晩年に蜀漢をつくっただけでも奇跡的だわ。 曹操の下で大人しくしといて信長死後の秀吉みたいにやれば良かったのに たらればが多いからこそコーエイの三国志Ⅶで補佐したくなる ゲームで劉備やると楽しいからなw
そんで曹操だと楽勝すぎる
コーエーゲーム公孫瓚は配下のはずの劉備たちがライバルの独立勢力だからあっさり袁昭につぶされてしまうのよな >>45
それかも曹操の下で大人しくしといていれば 張飛がロリコン、関羽は人妻寝取り趣味
これでは天下獲りは無理ですわ 魏書巻9 諸夏侯曹伝
夏侯惇(韓浩・史渙)・夏侯淵・曹仁(曹純)・曹洪・曹休(曹肇)・曹真(曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧?・丁謐・畢軌・李勝・桓範)・夏侯尚(夏侯玄)
蜀書なし
呉書巻51 宗室伝
孫静(孫瑜・孫皎・孫奐)・孫賁(孫鄰)・孫輔・孫翊(孫松)・孫匡・孫韶・孫桓 >>65
年齢順とか仕官順?
曹操は血は夏侯氏だし、親父さんは夏侯氏の方が近いから、
先に仲良くなったかもな 劉備が実質曹操麾下のときの光栄ゲームやりたいが、そんなシナリオ少なくとも3まだはなかったなあ ifストーリーですら蜀に天下を取らせたくない民が集結してるのに
劉備が天下統一できなかった理由を探すのか…? >>65
養子になる前の元が夏侯氏らしいから
夏侯氏は血の繋がりがある親族、曹氏は血の繋がりがない親族
もっとも曹操の子孫のDNA鑑定をすると夏侯氏とは遺伝的に関係ないのと
正史では、曹操の祖先は不明ってことになってるらしい 曹洪も曹真も曹休も宗室ではなく宗室の疎族だから夏侯氏と同列以下なんだろうな DNA鑑定すると曹操の子孫と加工しに遺伝的繋がりないらしい 曹瞞伝が曹嵩は夏侯氏と書いたのは同姓養子を取らない恥知らずなんですよといいたいだけで夏侯氏に特に意味はないからな あの国かなり無理して経済回してるしいつ崩壊してもおかしくない
不動産業とか政府の権限強くなかったら潰れてたし 楽しいな
楽しいな
妄想崩壊論
ジャップの方がどう見ても崩壊してるだろ 日本は失われた100年になるかもな
まあ国が存在してること自体怪しいが risoutekinidounarebayokattanodarouka 王安石の改革で進士科以外が廃止された後は、科挙の登第者(合格者)を指し、以降の南宋から清まで続いた制度である。 進士科は試験が最も難しく、1回に採られる人数は2〜30人と明経科の十分の一であったため、最も重んじられ、地位は他の科よりも高かった。「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」という言葉はいかに進士科が難関であったかを示している。 宋の科挙制度も開始時は進士・明経その他の科が設けられていたが、王安石の改革で明経などの諸科が廃止されて、進士科一科となった。元で科挙が開始された時も進士科のみで、明・清もそれを受け継いだ。そのため科挙の登第者のことを進士と称するようになった。 明清では殿試で選ばれた登第者は三甲に分けられた。一甲は状元・榜眼・探花の3名で「進士及第」と称し、二甲は若干名(清では一般に40-50名)で「進士出身」と称し、それ以外の三甲(清では一般に100-300名)は「同進士出身」と称した。世間の人々はそれらをまとめて進士と呼んだのである。
四谷大塚の準会員みたいなものか 挙人
郷試(きょうし)の合格者が与えられる資格。西洋人は普通、マスターと訳すが、実際はもっと地位が高い。 首席を解元(かいげん)というのは解試第一番の意味で、宋(そう)代には郷試に相当するものを解試と称したからである。 漢では試験によって人材を採用することがなく、郡国の長官が人材を推挙する郷挙里選が行われていた。郷挙里選で選ばれた者を挙人といった。 神様に質問します。
今日は民法の勉強をするべきでしょうか、特別区の過去問にするべきでしょうか。 軍事・軍師系士大夫である法正の死去と?統・馬良の戦死と黄権の魏への降伏が痛かった 曹丕もそうだけど病気はやったのかな
馬超も40代で死んじゃったし 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
40代後半から50代前半が平均寿命ってトコじゃね? 40代でがたが来るんだろうね
本来10第で親になって30ぐらいで孫ができて40で死ぬ動物なのかと 歴史書は「ひとつの時代が終わった」と考えたとき、作られる。 東方の担当者だったという意味で、ぼくら日本人は、司馬懿や張華や陳寿に、近しい感情を抱いてもいいのかも知れない。 邪馬台国が遠くて大きいのは、大月氏国と対等に見せるためだ 西域を担当し、大月氏と交渉を持っていたのは、司馬懿のライバル・曹爽である。曹爽よりちっぽけな東方諸国の担当では、司馬懿がショボくなる。
(=司馬懿が曹爽に競り負けていたことの証明になる) 中国史の英雄たちは、故事にそっくりの事例を探して、自分の行いを正当化する。しかし日本史には「故事」がないから、故事をむしろ作ってしまった!
中国史を知ってから『日本書紀』を読むと、驚くことがある。中国の故事が、まるで引用されていないことだ。本紀なんて記述スタイルを使ってるから、よほど中国の史書に学んだだろうに。
白村江で中国と敵対し、「日本だけの歴史」を創作したんだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています