X



韓非子について語るスレ2 [無断転載禁止]©2ch.net
0420名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/25(日) 17:34:32.97ID:NCrl1ACB0
世界の危機にだけ現れ、世界を救い去っていく勇者は人間にとって都合がいいだけの存在であり、平時には疎まれる
0421名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 12:58:19.29ID:GP3uqJMT0
世の人間のうちですぐれた資質を有する人物、特異な才能をもつ者は少数であり、数にして絶対多数を占める世の人間は、その資質においては凡庸な輩である。人間観を形成し、何にもまして人間を対象とする政治を考えるうえで、視点を置かねばならないのは凡庸な資質を有する者である。
0422名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 12:58:51.10ID:GP3uqJMT0
『韓非子』の絶対多数の「凡庸な輩」は「理性的判断をおこなわず、本能的に功利へと、打算へと向かう」
0423名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 12:59:17.44ID:GP3uqJMT0
『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を持っている。儒家が根本倫理としている親子・家族の関係でさえ、『韓非子』は、利益と打算で成り立っている、と言い放つ。
0424名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 12:59:50.39ID:GP3uqJMT0
法を語る時に「統治の対象たる人間を集団として捉え、個人、個性にはきわめて冷淡である」こと、言い換えれば、一個人の理性的判断のことを考慮していないこと。
0425名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:00:20.42ID:GP3uqJMT0
人間というものは、一般に恩知らずで、空惚(そらとぼ)けたり隠し立てをしたり、危険があればさっさと逃げ出し、設けることにかけては貪欲であるから、彼らに恩恵を施しているあいだはひとり残らずあなたの側へついてくる……いざという時には当てにならないのだから。そして人間というものは、恐ろしい相手よりも、慕わしい相手のほうが、危害を加えやすいのだから。……邪(よこしま)な存在である人間は、自分の利害に反すればいつでも、これ(恩愛)を断ち切ってしまうが、恐怖のほうは、……付きまとって離れない処罰の恐ろしさによって、つなぎ止められているから。
0426名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:01:02.98ID:GP3uqJMT0
外敵よりも民衆のほうを恐れる君主は、城砦を築くべきだが、民衆よりも外敵のほうを恐れる君主は、これ無しで済ませるべきだ。……最良の城砦があるとすれば、民衆に憎まれないことだ。
0427名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:01:16.99ID:GP3uqJMT0
どのようにすれば君主が側近を見分けられるのか。それには決して過(あやま)たない方法がある。すなわち、あなたから見て、側近があなたのことよりも自分のことのほうを考えているときには、またすべての行動においてひたすら自分の利益を追求していることが明らかなときには、そういう輩は忠実に保たせるためには、側近のことを思いやり、その名誉を称え、彼を富ませることによって、自分への恩義を深めさせ、数々の地位と任務とに彼を与(あずか)らせて、君主がいなければ自分が存在し得ないことを、……配慮しなければならない。互いにこのような関係になったとき、一方が他方を信頼できるようになる。
0428名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:01:37.69ID:GP3uqJMT0
両者の相違を《人間の中に存在する「理性」を認めるかどうかにかかっているのではないだろうか》と書いている。または『君主論』は《他者が理性にもとづいて判断し、行動するものと考え、それにより導き出される結果を期待》して、『韓非子』はその可能性を排除する。
0429名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:02:52.80ID:GP3uqJMT0
上の引用では『君主論』は民衆や臣下を信頼することが可能であることを示している。その一方で『韓非子』はそのような可能性を端(はな)から考慮に入れていない。『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を徹底している。
0430名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:03:30.56ID:GP3uqJMT0
『韓非子』はそもそも一個人の自然権など全く考えていない。『韓非子』は一個人の理性、さらに言えば一個人を考慮することすらしていない。

『韓非子』の主張する統治方法の根底にある考えは以下のようなものだ。すなわち、人間(集団)は自己の利益でしか動かず、彼らを統治するには威嚇を用いて一方的に統制するしか功を奏さない。
0431名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:04:18.18ID:GP3uqJMT0
罪刑法定主義と『韓非子』の違いは、前者が法の条文で威嚇して犯罪を予防しようとするのに対し、後者は刑罰の執行を庶民に見せることによって威嚇して予防しようとする点にある。

言い換えれば、前者が庶民の理性的判断(心理的抑制)を前提としているのに対し、後者は理性ではなく本能的功利的判断(人は利で動く)を前提としている。
0432名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:04:56.09ID:GP3uqJMT0
現代中国の法と体制に関する話。

現代中国の法の運用は今でも見せしめ刑の様相が根深いそうだ
0433名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:05:28.82ID:GP3uqJMT0
中国の法律が見せしめ刑であるのは中国の人口が多すぎるせいだと説明している。
0434名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:05:54.52ID:GP3uqJMT0
遊牧民(モンゴル人)に支配されたユーラシア(ロシア・中国など)の社会システムは独裁体制
0435名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:06:24.71ID:GP3uqJMT0
中国史において、人口増加や遊牧民支配は『韓非子』が編纂された後の時代に起こった出来事なので、『韓非子』が中国の体制・法体系を作った原因だ、とは言えない。

むしろ、人口増加・遊牧民支配の結果 出来上がった中国社会を統治するために『韓非子』が採用された、と言ったほうが辻褄が合うだろう。
0436名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:06:52.68ID:GP3uqJMT0
『韓非子』の人間不信については《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》(備内篇)の言葉を引用して説明を済ませることもできるが、この記事ではもう少しだけ深堀りして見ようと思う。

『韓非子』はどうして「人間不信」に至ったのか?
0437名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:07:30.18ID:GP3uqJMT0
子貢「食料、軍備、信義、この三者のうち何が不可欠でしょうか?」
孔子「それは、信義だ。人間は死から逃れられない以上、飢餓と安全もある意味では犠牲にせねばならないこともあろう。しかし、信頼・信義は違う。これがなければ人間はそもそも存在しないのだ」(『論語』顔淵) 「信なくば立たず」、今日でも政治家のキャッチフレーズとして使われる言葉だが、韓非はそういった楽天主義を、ものの本質がまったく理解できていない愚かで浅薄、それゆえ間違いと不幸を招来する考えとして切り捨てるのである。
0438名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:07:54.38ID:GP3uqJMT0
「わたしは戦争がいかに不利益であるかを力説することで戦争をやめさせたい」
孟子「あなたは、利ということをもって説得し、説得されたほうも利益に従って撤兵し、兵隊たちも闘いを喜んでやめ、利益を第一と考えるでしょう。臣下は利のうえから君主に仕え、子たるもの打算のうえから親に仕え、弟たるもの打算のうえから兄に仕えるということになります。これでは、君臣兄弟すべて仁義をうちやり利益・計算だけを考えて人間関係をもつ。そのような状態が長く続いた国はありません。利益を捨てて仁義のみによって人間の関係を保つべきです」
0439名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:08:42.53ID:GP3uqJMT0
徳・仁・義をその根本倫理に置く儒家思想、その出発点は血の繋がりにもとづく人間関係、親と子、家族である。家族の結びつきに認められるアプリオリな[先天的な--引用者]意識・感情、つまりそれは親が子に対する愛情、子が親に懐(いだ)く敬意(孝)、兄弟間の融和と尊敬(悌)であり、これらは生まれながらにして備わる人間の善意と考えるのである。
0440名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:09:06.01ID:GP3uqJMT0
家族の情を根本に、それを君臣関係に拡大擬制することで、国家権力の承認に転化させること、これが儒家の唱えた統治イデオロギーであった。
0441名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:09:35.60ID:GP3uqJMT0
韓非にとって、あまりに理想主義的、楽天的で、実現にほど遠く、しかしながら、したり顔で倫理道徳の実現を説く思想、まったくもって現実離れしているがゆえ、どうにも我慢できない一派、それは儒家であり、とりわけ孟子の思想であった。
0442名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:09:58.93ID:GP3uqJMT0
君主にとって、人を信ずることは有害である。人を信ずれば、自分がおさえられる。

臣下は、君主と血縁関係があるわけではない。君主の力におさえられて、やむをえず服従しているだけだ。
0443名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:10:20.18ID:GP3uqJMT0
君主がわが子を盲信すると、腹ぐろい臣下は君主の子を利用して私欲をとげようとする。
0444名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:10:40.72ID:GP3uqJMT0
君主が妻を信ずれば、腹ぐろい臣下は君主の妻を利用して私欲をとげようとする。
0445名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:11:09.12ID:GP3uqJMT0
君主の妻は、血縁関係になく、老いて容色を失えば寵愛を失って自分が生んだ子も愛されなくなる。しかし子供が君主になれば国母としてやりたいことは何でもできる。だから妻は夫の死を願うのだ。
0446名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:11:43.17ID:GP3uqJMT0
儒家は人間同士の信義をもって人間存在の条件、言い換えれば信義が無ければ「人でなし」、と考えていた。

ところが、『韓非子』はそれを否定し人間存在の条件とか性善説・性悪説などという議論をことごとく否定して、人間はただただ利益を求めて行動するという性質にだけ言及している。
0447名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:13:17.10ID:GP3uqJMT0
人は己の利益を求めて行動する。利益とは、金銭的、物質的な実利はもちろんのこと、名誉、自己満足も含み、いってみればすべて己にとってプラスになるもの、ひとはそれを無意識のうちに計算し、それを得ようと行動する、人間のもって生まれた性とは所詮そんなものだと、韓非は明快に言い放つ。
0448名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:13:48.90ID:GP3uqJMT0
人を雇って農事をしてもらうのに、主人が美味しい食事を作って雇い人に食べさせたり銭布を調達して支払ったりするのは、雇い人を愛するからではなく、彼に良い仕事をしてもらおうとするからだ。雇われた者も一生懸命に働くのは、主人を愛するからではなく、そうすれば美味しいものが食べられ、金がもらえるとふんでいるからだ。自分のプラスのみを考える、だから人が事業をおこなったり、物を与えたりするとき、互いに得をすると思えば仲よくなり、損をすると思えば、親子の間にも恨みの気持ちが生ずる。
0449名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:14:28.68ID:GP3uqJMT0
そして人間の感情的なものを思考の外に置いた『韓非子』は「人は利で動く」という一点だけを前提にして論を組み立てる。

家族関係は、(儒家の主張する)愛や孝などで結ばれているのではなく打算・利益によって結ばれている。家族関係からしてそうなのだから、君臣関係ならなおさらそうだ。

君主たるもの君臣が信義で結ばれているなどと信じれば、寝首をかかれる。それだけではなく、妻には(比喩ではなく)寝首をかかれないように十分に注意すべきだ。

これが人間不信に至る考え方だ。
0450名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:14:44.81ID:GP3uqJMT0
「人は信用できない。信義など期待しない」、人間に対する不信、これが韓非の思想の基礎であり、出発点だったのである。
0451名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:15:19.88ID:GP3uqJMT0
現代中国では庶民に至るまで、『韓非子』の考え方が浸透している。
0452名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:15:37.05ID:GP3uqJMT0
さすがに、『韓非子』ほどドライではないが、日本人の情緒で中国人に接すれば、《信ずれば則ち人に制せらる》どころか、資産を吸い取られた後にお払い箱にされる。中国大陸に進出した日本の企業を思い起こせばすぐに理解できるだろう。
0453名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:16:27.88ID:GP3uqJMT0
名君は二つの柄(え)を握るだけで、臣下を統率する。二つの柄とは刑・徳のことである。刑・徳とは何か。罰を加えることを「刑」といい、賞を与えることを「徳」という。臣下というものは罰をおそれ賞をよろこぶ。君主が二つの柄を自分の手で握っていれば、臣下を「刑」でおどし「徳」で釣り、思いのままにあやつることができる。
0454名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:16:45.75ID:GP3uqJMT0
「刑・徳」はつまりは「アメとムチ」で、「徳」とは「アメ」にほかならない。『韓非子』に出てくる「徳」は基本的に「アメ」程度の意味に考えておけばいいらしい。
0455名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:17:30.29ID:GP3uqJMT0
「徳」の原義
さて、戦国時代の思想家たちはこの「徳」の概念を意味は違えど重要視していた。そうなると思想家の色眼鏡にかかっていない本来の「徳」の意味とはどういうものだったか。

「徳」という漢字の語源をネットで調べると、諸説あるのだが、一番多く見られる説は
《彳+直+心》
で元々は「悳」という字があってこれに彳がついて「真っ直ぐな心で行動する」が原義になった、というもの。この説は儒家の「徳」と直結するが、その他の「徳」とは縁遠い。

次に多かったのが、
《彳+省+心)》
で、これは《彳+省》に心が後から付いた、というもの。これは白川静『字統』にあるようだ。「徳」あるいは「省」の「目」の上にあるものは呪飾(古代の呪術的なメイク?)を表している。古代の為政者たちは目の上にメイクをして地方を視察したらしい。この視察のことを「省」または「省道」という。呪飾による一時的でしかなかった呪力から、次第に恒久的な内面的な力(他人に影響を与える力)へと変化して、それが「徳」の原義となる。そして後になって、「得」と同音であることから「力を与えられて生成されたもの」という意味で使われるようになった。
0456名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:18:00.61ID:GP3uqJMT0
いろいろ調べてみると「直」という字は「省」から派生した字だという。
0457名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:18:21.44ID:GP3uqJMT0
「徳」の意味は「ある家系が王権との関係を通して持っている生命力」を意味することが明らかになっている
0458名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:18:44.05ID:GP3uqJMT0
「徳」の定義は「天上に源泉する生命力」だそうだ
0459名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:19:06.81ID:GP3uqJMT0
「子曰、天、徳を予に生(な)せり。」
0460名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:19:27.20ID:GP3uqJMT0
意味は「天はわたしに使命を果たすべき力を与えてくれているのだ」。

儒家が用いる「徳」が道徳的な意味合いを持つようになるのは孟子からかもしれない。
0461名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:20:12.57ID:GP3uqJMT0
楚の国に盾と矛とを売る男がいた。かれはまず自分の売る盾の宣伝をした。
「この盾の丈夫さときたら、たいしたものだ。何で突いたって、突きとおせるものではない」
つぎに、男は矛の宣伝をした。
「この矛のするどさときたら、たいしたものだ。どんなものだって、突きとおせないものはない」
ある人がたずねた。
「その矛でその盾を突いたら、どうなる」
男は答えにつまってしまった。
何によっても突き通すことができたに盾と、何でも突きとおすことのできる矛とが、同時に存在することはできない。
0462名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:21:54.92ID:GP3uqJMT0
宋の国である男が畑を耕していた。そこへウサギがとびだし、畑の中の切株にぶつかり、首を折って死んだ。それからというもの、かれは畑仕事はやめにして、毎日切株を見張っていた。もう一度ウサギを手にいれようと思ったのだ。しかしウサギはそれきり。かれは国中で笑い者になったという。
0463名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:23:15.92ID:GP3uqJMT0
堯・舜、そして桀・紂などは、賢聖、暴君としての両極であり、千年にひとり出るか出ないかの存在である。われわれが考えねばならないのは、そのような例外に属する人物ではなく、ごく平凡などこにでも転がっている輩であり、世の中それが大多数を占める。したがって堯や舜の聖人の出現を待つなどということは、千年に一度の偶然を期待するようなもの、乱世を千年我慢して、ただの一度の治安を願うに等しい。しかも、たとえ堯・舜が出てきたとしても一個人としては自らの能力には限りがある。全体、大多数を治めるには、然るべき地位・権威を盾に褒賞・刑罰をシステマティックに運用していくことが一番である。
0464名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:24:24.82ID:GP3uqJMT0
権勢、地位よりもいっそう技術的、テクニックに傾くものとして、君主はいまひとつの「術」を習得しておかねばならない。「術」とは、臣下・部下の操縦術、掌握術であり、功利的行動を人がとり、それゆえ「人を信ずれば、人に制せらる」という教訓から導き出されたものであった。

『韓非子』内儲説上篇に「七術」篇があり、そこで七種類の操縦術を開陳している。

多くの手がかりを集めてそれを突き合わせて総合的、実証的に判断する。
威厳をもって、必罰をおこなう。
能力を発揮させるために、然るべき者に恩賞を与える。
個別に分離独立して意見を聴取し、実績に従って結果責任を問う。
不可解な命令や態度をわざとして、臣下を疑心暗鬼にさせ、また臣下をそれで試す。
知らないふりをして、質問して、どう応えるのか観察する。
意図することの逆のことを言ったりしたりして、相手の反応を見る。
右にいう「信賞必罰」「実物証拠主義」は、改めていうまでもなかろう。
0465名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:24:57.71ID:GP3uqJMT0
県の長官であった龐敬は、市の役人を視察し、責任者を呼び出した。しばらく立って対面していたが、別に何も命令せずにそのまま帰した。役人たちは、長官と自分たちの責任者が何か自分たちのことに関して話し合ったに違いないと疑心暗鬼になり、何もしないでも統制がきいた。
0466名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:25:25.79ID:GP3uqJMT0
第一には、法律を準則としてそれに忠実に乗っ取る、刑罰と徳を運用における推進力とする。第二には、為政者個人の資質に過度な期待をせず、権威・地位という装置の上で、臣下を掌握する術を会得して政治をおこなう、そうすればどんな凡人君主でも一定の成果をあげることができ世の中の安寧秩序は達成できる。これが韓非の政治論であった。
0467名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:26:23.83ID:GP3uqJMT0
韓非子は先輩の申不害から、形名参同術の理論を導入したのだが、韓非子は術的法や厚賞厳罰、君主の権勢などを、形名参同術と密接に結合する形に理論を進展させている。こうした操作によって形名参同術は、形名術に委ねれば自動的に臣下を督責でき、君主は賢智を用いた煩雑な判断をせずに無為でいられるといった申不害の段階から、法と賞罰による威嚇を背景に、より積極的に君主権への絶対服従を強制する段階へと、その威力を増大させたのである。
0468名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:27:10.05ID:GP3uqJMT0
国家の要職を占める重臣たちは、その権力を悪用して、さまざまな陰謀をめぐらす。いかにも国家や君主のためにしているかのように見せかけながら、その裏では私腹を肥やし続ける。
0469名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:27:35.86ID:GP3uqJMT0
だが法術の士は、どんなに利益を餌にみせられても、決してつられたりはしない。どんなに脅迫されても、決してひるんだりはしない。法術の士は、自分の利益には目もくれず、命を落とす危険も顧みない。
0470名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/30(金) 13:27:54.60ID:GP3uqJMT0
法術の士が活躍するためには、その価値を高く評価して任用してくれる君主が必要である。そうした君主を韓非子は「明主」とか「明王」と呼ぶ。明主と法術の士。韓非子によってこの二種類の人間だけは、曇りなき叡智を備え、欲望に目が眩(くら)まず、恐怖にたじろがず、決然として国家の前途に深謀をめぐらす、純粋な仕事師、ピューリタン的人間として描かれる。だがそうした人間が出現する保証は、実はどこにもない。
レスを投稿する


ニューススポーツなんでも実況