0001列島縦断名無しさん2018/12/25(火) 07:13:41.99ID:4OKyzh4r
団体
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宗教
創価学会インタナショナル(SGI)
政党
公明党
教育機関:幼稚園から大学院までの一貫教育システムがある。また日本国外にも関連の教育機関がある。
学校法人創価学園
創価中学校・高等学校
関西創価中学校・高等学校
東京創価小学校
関西創価小学校
札幌創価幼稚園
学校法人創価大学
創価大学
創価女子短期大学
アメリカ創価大学(Soka University of America)
芸能、芸術
民主音楽協会:世界各国の音楽をはじめとする舞台芸術の公演の紹介や音楽文化交流を行う。
富士美術館(2008年閉館)
東京富士美術館
研究機関
東洋哲学研究所:東洋思想、仏教の学問的研究を行う。
1928年(昭和3年)
東京市立白金尋常小学校(現・港区立白金小学校)校長だった牧口常三郎が「日蓮正宗」に入信[SG 26]。ほぼ同時期に戸田甚一(後の戸田城聖)も入信[SG 27]。
1930年代
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1930年(昭和5年)
11月18日 - 牧口の『創価教育学体系』第1巻が発行される。戸田は「戸田城外」を名乗る。創価学会ではこの日を創立記念日としている。また、「創価教育学支援会」も結成された[55]。
1937年(昭和12年)
12月 - 「創価教育学会」発会式[56]。
1939年(昭和14年)
12月 - 「創価教育学会」第1回総会。
1940年代
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1940年(昭和15年)
5月 - 金融業「日本商手」を設立、創価教育学会事務所を現在の東京都千代田区神田錦町に置かれた同社内に移転。
10月 - 東京・九段下の軍人会館(現・「九段会館」)において「創価教育学会」第2回総会。
1941年(昭和16年)
7月 - 機関紙「価値創造」創刊
11月 - 創価教育学会第3回総会。
1942年(昭和17年)
11月 - 東京・一ツ橋の日本教育会館において「創価教育学会」第5回総会。支部の数が東京に16、地方に12となる[6]。
1943年(昭和18年)
5月 - 創価教育学会第6回総会。直後に神社神道を批判したことで機関誌『新教』が廃刊命令を受ける。
7月 - 「治安維持法」違反並びに「不敬罪」の容疑で牧口、戸田の他、21名の幹部が逮捕される。
1944年(昭和19年)
11月18日 - 牧口が東京拘置所内で死去。
戸田城聖
1945年(昭和20年)
7月 - 戸田が豊多摩刑務所から出獄。
9月 - 東京都千代田区西神田にビルを取得。創価教育学会本部を再建。
1946年(昭和21年)
3月 - 「創価教育学会」を「創価学会」に改称し、布教活動を進める。
11月17日 - 牧口の三回忌法要および「創価学会」第1回総会を開催。戸田が理事長に就任。
1947年(昭和22年)
8月14日 – 戸田が出席した座談会に池田大作が参加[SG 28]。
8月24日 – 池田が創価学会に入会[SG 28]。
1949年(昭和24年)
7月 - 機関誌『大白蓮華』創刊。
1950年代
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1951年(昭和26年)
4月20日 - 機関紙『聖教新聞』創刊[注 3]。
5月3日 - 戸田が「創価学会」会長に就任。小泉隆が理事長に就任。戸田は就任演説において、自らが生きている間に75万世帯を折伏することを目標に掲げる[57]。
7月 - 男子部・女子部など現在のスタイルに近いものを結成[56]。
11月
4日 - 第6回総会にて戸田は「学会精神と目的」について「弘安2年10月12日図顕の一閻浮提総与御本尊の日本流布、東洋広布、日蓮正宗宗門の顕揚」の3ヶ条遂行を大誓願とする旨発表[SG 29]。
18日 - 『折伏教典』を発刊[56]。
12月18日 - 戸田が宗務院の命により登山し、「宗教法人創価学会」設立に際して、宗門から要望のあった3ヶ条の遵守を約束[SG 30][SG 31][注 4]。
詳細は「#日蓮正宗との関係」を参照
1952年(昭和27年)
4月 - 「狸祭り事件」[6]。
4月28日 - 『新編日蓮大聖人御書全集』(通称・御書全集、御書)を発刊[SG 32]。
8月27日 - 東京都知事より宗教法人の認証を取得。
11月 - 『御書十大部講義』を発刊[56]。
12月 - 教学部の任用試験を開始[6]。
12月20日 - 東京都新宿区信濃町25番地に新本部を建設する計画を聖教新聞紙上で発表するも後に建設用地を売却[注 5]。
年末 - 男子部の人材育成グループ「水滸会」を発足[58]。
1953年(昭和28年)
9月20日 - 東京都新宿区信濃町32番地にあった洋館を改築して新本部とする計画を聖教新聞紙上で発表する[SG 33]。
10月 - 東京都新宿区信濃町に本部が完成[59]。
11月 - 本部を信濃町に移転[6]。
1954年(昭和29年)
3月 - 参謀室設置
10月 - 大石寺に青年部1万人が登山し、出陣式[6]。
11月 - 文化部設置
12月 - 渉外部設置。部長には池田が任命。
1955年(昭和30年)
3月 - 北海道小樽市において、日蓮宗と創価学会との法論が行われる。
「#小樽問答」も参照
4月 - 政界進出を目指し、第3回統一地方選挙に文化部員を出馬[57]。当時はまだ政党組織がなかったため、無所属で創価学会が推薦するという形を取った。
1956年(昭和31年)
1月 - 戸田が宗門64世法主水谷日昇の隠退表明を拝して「先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとえ大幹部といえども即座に除名する」との談話を発表[SG 34]。同日の寸鉄では「(創価学会は日蓮正宗の)法主を宗祖大聖人としておつかえ申上げる、どなたが法主様でも一貫不変、これ信者の大精神。」と評した[SG 35]。
「日昇#略歴」も参照
7月 - 第4回参議院議員通常選挙に6名の候補者を擁立。大阪支部長の白木義一郎ら3名が当選。
12月 - 法務省刑事局は「その信条に基づく行動に暴力的な動向が顕著」「多数の青年行動隊を軍隊の組織区分に準じて編成し、この折伏の実践に当たらせている」として創価学会を新興右翼団体と認定した[60](後に認定解除)
1957年(昭和32年)
4月 - 参議院大阪府選挙区の補欠選挙で一部の会員が選挙違反を起こす。会員の供述から小泉理事長、池田渉外部長ら合わせて47人が逮捕される。裁判で実行犯とされた末端会員らが有罪判決を受ける中、首謀者とされた池田・小泉は無罪判決を受ける。
詳細は「大阪事件_(創価学会)」を参照
9月 - 横浜市・三ツ沢グラウンドで戸田が「原水爆禁止宣言」を発表。
12月 - 本部幹部会で75万世帯の折伏達成を発表。また、戸田会長は欠席したものの、「永遠の三指針」を発表[SG 36][注 6]。
1958年(昭和33年)
3月 - 日蓮正宗の総本山大石寺の大講堂が完成。学会では「大講堂落慶記念総登山」と呼んだ。延べ20万人余の会員が参加。
詳細は「戸田城聖#大講堂竣工と突然の死」を参照
3月16日 - 「広宣流布の模擬試験」が大石寺大講堂で行われ、青年部員6,000人が参加、戸田が広宣流布の一切の後事を青年部全体に託した[SG 37]。
「大講堂 (大石寺)#概要」も参照
4月 - 1日に戸田が体調を崩し駿河台日本大学病院に緊急入院[SG 38]。2日に死去[SG 39]。
5月 - 戸田の四十九日法要を機に開かれた臨時幹部会において戸田の七回忌まで後継者となる新会長を立てないことを決定、戸田幾、細井日達立会いの下、池田、石田、和泉、柏原らが誓約書に署名[SG 40]。
6月30日 – 本部幹部会で「総務」ポストの新設が発表され、池田が就任。
1959年(昭和34年)
6月 - 池田が青年部参謀室長を辞任し、総務職に専念。
1960年(昭和35年)
5月3日 - 戸田の没後2年(三回忌)を経て、池田大作が創価学会第3代会長に就任。理事長に原島が就任。
7月 - 創価学会海外本部を設置[SG 41]。
1961年(昭和36年)
11月27日 - 「公明政治連盟」(後の公明党)を発足。
大石寺大客殿の寄進として32億円を集める[61]。
1962年(昭和37年)
1月25日 - 大阪事件で起訴されていた小泉と池田が無罪判決を受ける。
1963年(昭和38年)
10月 - 「民主音楽協会」を設立。
1964年(昭和39年)
5月3日 - 池田が政党の創設と衆議院への進出を表明[62]。
6月30日 - 第7回学生部総会にて、池田が「創価大学設立構想」を発表[SG 42]。
11月17日 - 「公明政治連盟」を改組して政党、「公明党」を結成。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、「『王仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とする」旨を謳う。
1965年(昭和40年)
7月 - 『聖教新聞』が日刊化。
10月9日~12日 - 正本堂建立のため4日間の供養が行われ355億円が集まる。
詳細は「正本堂 (大石寺)#概要」を参照
1968年(昭和43年)
年間行事として本部総会(5月)、男子部総会(11月)、女子部総会(11月)、学生部総会(7月)、夏期講習会(8月)などが開催[63]
4月1日 -「創価学園」設立。
詳細は「学校法人創価学園」を参照
7月 - 参議院選挙で不正投票を行ったとして学会員34人が検挙される[64]。
詳細は「新宿替え玉事件」を参照
1969年(昭和44年)
12月2日 - 言論出版妨害事件が表面化。
1970年(昭和45年)
1月 - 総務会の決定で副会長職を設置。秋谷栄之助、北条浩、森田一哉の3人が就任[65]。同時に公明党中央執行委員長、書記長が学会職務を離れることも決定。
5月3日 - 池田が「言論出版妨害事件」について公式に謝罪。創価学会と公明党を組織的に分離することなど組織改革を表明し、即日実行。
詳細は「言論出版妨害事件#池田会長の公式謝罪」および「公明党#創価学会との関係、政教分離問題」を参照
日本共産党委員長宮本顕治の自宅の電話に盗聴器を仕掛ける。
詳細は「宮本顕治宅盗聴事件」を参照
1971年(昭和46年)
4月2日 - 「創価大学」開学(学部・学科の沿革は創価大学を参照)。
1972年(昭和47年)
10月 - 正本堂完成。
大石寺 正本堂
1973年(昭和48年)
5月3日 - 静岡県富士宮市・大石寺境内地に富士美術館が開館。
1974年(昭和49年)
10月 - 妙信講(現在の冨士大石寺顕正会)男子部約70名が創価学会本部(創価文化会館)を襲撃し、創価学会の会館警備をしていた牙城会メンバーと乱闘騒ぎを起こす。
詳細は「和泉覚#創価学会本部襲撃事件」を参照
12月 - 日本共産党との間で、向こう10年間の「相互不干渉」、「共存」をうたった「創共協定」を締結[66]。
詳細は「日本共産党と創価学会との合意についての協定」を参照
1975年(昭和50年)
1月 - グアム島において、創価学会の海外組織である「創価学会インタナショナル」(SGI)が設立される。池田が会長に就任。
1976年(昭和51年)
月刊誌『月刊ペン』(1976年3月号・4月号)に中傷記事を掲載した同紙編集長隈部大蔵を名誉毀損罪容疑で刑事告訴。
詳細は「月刊ペン事件」を参照
1977年(昭和52年)
1月 - 池田が第9回教学部大会における「仏教史観を語る」と題する講演で「出家も在家も同格」と発言。反学会派僧侶からの批判が強まる
詳細は「#昭和52年路線」を参照
5月 - 民社党中央執行委員長春日一幸から公明党中央執行委員長竹入義勝宛に国会で池田の豪華専用施設等について調査し、質問する旨を知らせる手紙が届く[59]。
7月 - 池田が大石寺への参詣を一時的に禁止される[67]。
1978年(昭和53年)
6月 - 『聖教新聞』紙上で「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱を是正することを表明。
11月 - 創立48周年記念登山代表幹部会に幹部、全国の教師2,000人らが大石寺に出向く。創価学会が宗門の許可を得ないまま、本部常住御本尊など8体を模刻して会員に礼拝させていたとされる件について、学会側は「不用意に御本尊8体を模刻してしまい、行き過ぎの点があった」として謝罪。本部常住御本尊以外の御本尊7体を大石寺に納めることで事態の解決を図った[SG 43]。
1979年(昭和54年)
4月24日 - 池田が会長職を辞任し、名誉会長に就任。理事長だった北条が第4代会長に就任。理事長には森田が就いた。創価学会会則の制定により会長の任期を終身から5年に変更。
「#名誉会長と歴代会長」も参照
4月26日 - 池田が法華講総講頭を辞任。他の法華講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約束する。日達は池田を法華講名誉総講頭に任ずる。
5月3日 - 日達が創価学会第40回本部総会において問題の収束を宣言。ここに第一次宗創問題が終結する。
「日達#日達と創価学会の軋轢」も参照
7月22日 - 日達が遷化(死去)(77歳没)。
8月6日 - 阿部日顕が宗門第67世法主に登座し、御座替りの儀式、および御盃の儀を行う[SG 44]。
1980年(昭和55年)
7月4日 - 反学会急進派の僧侶、当時は学会に融和的とされた日顕を批判し独立、正信会を結成。
10月 - 静岡県富士宮市に「富士桜自然墓地公園」が完成[66]。
1981年(昭和56年)
7月18日 - 北条が死去。副会長だった秋谷が第5代会長に就任。以後、2006年(平成18年)に辞任するまで秋谷は6選を果たす。
1983年(昭和58年)
1月 - 『創価新報』創刊。
11月 - 東京富士美術館(東京都八王子市)が開館。
東京富士美術館
1984年(昭和59年)
1月 - 池田が「法華講総講頭」に再任[68]。
1985年(昭和60年)
4月2日 - 「創価女子短期大学」開学。
詳細は「創価女子短期大学」を参照
1989年(昭和64年/平成元年)
7月16日 - 横浜市旭区の産業廃棄物処分場に現金約1億7000万円の入った金庫が捨てられていたが、これが創価学会幹部によるものと判明。批判を受ける[69]。
1990年(平成2年)
7月16日 - 日顕ら日蓮正宗上層部が創価学会破門に向けた「C作戦(創価学会分離作戦)」を計画[注 7]
11月16日 - 本部幹部会で池田が日蓮正宗宗門並びに日顕を批判する発言を行う[68]。学会側は「名誉会長(池田)は(後述の)「お尋ね」文書にあるような発言を全くしていない」として反論[注 8]。
12月16日 - 日蓮正宗宗門が前月の池田の発言内容について「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」とする文書で質問[68]。「お尋ね」文書の内容は、池田が僧侶を批判した、四箇格言を否定し、親鸞を好意的に評価した、外道(仏教以外)の歌である『歓喜の歌』を評価した、などとして批判する内容。学会側は反論[70][SG 48]。
12月27日 - C作戦発動。日蓮正宗宗門は法華講総講頭に任期制を導入、これにより1990年(平成2年)末の任期終了と共に池田は法華講総講頭の資格を自動的に失い、第二次宗門問題が勃発する。
詳細は「日顕 (日蓮正宗)#創価学会破門」を参照
1991年(平成3年)
5月 - 国税局から一部事業における税金の申告漏れを指摘され、修正申告及び不足分の納税を行う[71]
11月7日 - 日蓮正宗宗門から創価学会に対し『解散勧告』がなされる[72][68]。学会はこれに対し1624万余の署名とともに[73]「日顕の退座」を要求する文書を郵送して反論[68]。
11月28日 - 日蓮正宗宗門が創価学会および創価学会インタナショナル(SGI)を『破門』する[72][68]。これにより日蓮正宗と創価学会・SGIの関係が消滅。
1992年(平成4年)
7月 - 全国の地区幹部の中から「友人葬」などの冠婚葬祭を執り行う導師を任命[74]。
8月 - 池田が日蓮正宗から信徒除名処分にされる。
「除名#宗門の除名」も参照
11月 - 青年部機関紙『創価新報』が捏造した宴席写真を掲載し日顕を批判、日蓮正宗との訴訟に発展。地裁判決では学会側が写真の捏造を行ったことを認定し、学会側が敗訴、原告が求めた賠償請求も認められた[75]。その後学会が控訴した高裁において名誉毀損は認定したが損害賠償は認められなかった。日蓮正宗側は損害賠償を求め上告するも棄却された。
1993年(平成5年)
9月7日 - 栃木県小山市・淨圓寺所蔵の享保5年(1720年)の日寛書写の曼荼羅御本尊を御形木御本尊として、日本全国および世界の会員に授与することを総務会・参議会・教学部最高会議・県長会議および責任役員会の決議で決定し、同日開催の第70回本部幹部会で「御本尊授与に関する制定」を発表[SG 49]。
10月12日 - 日寛書写の曼荼羅御本尊の授与を開始[SG 8]。
10月 - 東京都八王子市に東京牧口記念会館が開館。
11月 - 第一次池田大作サリン襲撃未遂事件。オウム真理教がサリンによる池田の暗殺を計画。東京都八王子市の東京牧口記念会館周辺でサリンを噴霧。
12月18日 - 第二次池田大作サリン襲撃未遂事件。オウム真理教が東京都八王子市の東京牧口記念会館周辺でサリンを噴霧し、牙城会員数人が被害を受け、実行犯の新実智光が自らが撒いたサリンにより重体。この後、信濃町の本部、全国各地の会館、創価大学、創価学園など学会関連施設での警備が厳重になる。
1995年(平成7年)
9月 - 東京都・東村山市議会議員朝木明代の死に関連して市議が自殺前に創価学会を批判していたことから、創価学会が謀殺したとのデマが広まる。
詳細は「朝木明代市議転落死事件」を参照
1996年(平成8年)
2月 - 「戸田記念国際平和研究所」を創設[59]。
6月 - 元女性会員が池田から過去数回にわたりレイプされたと虚偽の主張をし、裁判を起こす。
詳細は「池田大作に対する訴権の濫用」を参照
9月 - 宗教法人法の改正が施行され、所轄省庁が東京都から文部省(現:文部科学省)に変わる。
1997年(平成9年)
1月 - 公式サイト「SOKAnet」を開設。
11月30日 - 同日をもって日蓮正宗の信徒資格を喪失。
2002年(平成14年)
3月 - 創価学会会則を改正。初代牧口、第2代戸田、第3代池田の「三代会長」を、「永遠の指導者」とする規定を入れる[批 2]。
2003年(平成15年)
9月 - 教学部員の任用試験が全国一斉に開始される[6]。
11月 - 創価学会現役会員ら数名が池田大作の秘書を騙り、みずほ銀行から巨額の融資詐欺事件を起こす。
詳細は「創価学会を騙った巨額融資詐欺事件」を参照
2004年(平成16年)
9月10日- 勤行様式を改定。
2006年(平成18年)
11月9日 - 秋谷が会長を辞任し、最高指導会議議長に就任。新会長には副理事長の原田稔が就任。同月、原田の会長就任披露を兼ねた、新時代第1回本部幹部会開催。本部幹部会の回数がリセットされ「学会新時代」の開始が宣言される。
2007年(平成19年)
9月22日 - 「広布第二幕」第1回青年部幹部会。以後、各部幹部会会合の回数がすべてリセットされる。
2008年(平成20年)
5月 - 富士美術館(静岡県富士宮市)閉館。収蔵品は東京富士美術館(東京都八王子市)に移動。
2010年(平成22年)
6月3日 - 「新時代第41回本部幹部会」で名誉会長の池田大作が第一線から退くことが発表された[SG 50][SG 51]。
11月18日 - 創立80周年。老朽化した本部ビルと創価文化会館を建て替え「創価学会総本部」を建設すると発表[SG 52]。
2011年(平成23年)
11月4日 - 会長選出委員会が開催され、任期満了となった原田会長が再任された(2期目)[SG 53]。
2012年(平成24年)
12月19日 - 創価文化センター開館[SG 54]。
2013年(平成25年)
11月5日 - 創価学会総本部会館(仮称)の大礼拝室で名誉会長の池田を導師として落慶入仏式が執り行われた。8日に行われた落成記念勤行会の席上、総本部会館は広宣流布の大願を誓う殿堂であるとして「広宣流布大誓堂(こうせんるふだいせいどう)」と命名すると発表、信濃町に所在する学会関連施設全体の呼称が「創価学会総本部(そうかがっかいそうほんぶ)」となる[SG 55]。
2014年(平成26年)
11月7日 - 総務会で創価学会会則第2条・教義条項の改正を決議。「一閻浮提総与」や「一閻浮提広宣流布」など、日蓮正宗由来の用語を一掃し、「人間革命」や「世界広宣流布」などといった、創価学会色の強い表現に変更。弘安2年の御本尊を受持の対象としないことを表明し、教義条項における「御本尊」の位置付けも変更。「御本尊」は「創価学会が受持の対象として認定した御本尊」とした[SG 56]。同日開催の全国総県長会議で教義条項の改正を発表[SG 57]。
2015年(平成27年)
11月16日 - 勤行要典の祈念内容の一部改正が発表され、名称を「創価学会 勤行要典」に改めて翌2016年(平成28年)に発売すると発表される[SG 58]。
11月17日 - 総務会で会則改正を決議。会長任期を5年から4年(再任は妨げない)に変更した。また、会長選出委員会が開催され、会則改正によって任期満了となった原田会長が再任された(3期目)。幹部人事では会則改正によって新設された主任副会長若干名の任命、正木正明理事長の退任と副理事長の長谷川重夫が理事長に昇格する人事を発表した[SG 59]。
2016年(平成28年)
11月4日 - オンライン動画共有サイト「YouTube」で「SOKAnetチャンネル 創価学会公式」を開設し、動画掲載を開始。
11月7日 - 創価学会会則の一部改正を決議。第2代会長・戸田城聖の指導を引用し、前文に「創価学会仏」の文言を追加。「三代会長」の条文(会則第3条)に、「『三代会長』の敬称は、『先生』とする。」という文言を追加[SG 60]。
2017年(平成29年)
7月18日 - オンライン動画共有サイト「YouTube」で機関紙「聖教新聞」の公式チャンネル「seikyoshimbun」を開設し、動画掲載を開始。
9月1日 - 総務会およびSGI常任理事会・SGI理事会で「創価学会会憲」の制定を決議。会則の上位に位置づけられ、最高法規と規定される[76]。
11月10日 - 創価学会会憲署名式が行われ[SG 61]、会憲制定に合わせて改正された会則とともに11月18日(創立記念日)に施行された[SG 62]。
2018年(平成30年)
3月11日 - 同年3月16日に「広宣流布記念の日」から60周年を迎えることを記念した「世界青年部総会」が創価大学池田記念講堂を主会場に開催され、名誉会長・SGI会長である池田大作からのメッセージを発表した(長男の池田博正主任副会長が代読する形式)[SG 63]。
2019年(平成31年/令和元年)
5月1日 - 皇位継承にあたっての会長謹話を発表[SG 64]。
11月5日 - 総本部構成施設として建設された「創価学会総合案内センター」がオープン[SG 65]。
11月16日 - 聖教新聞社の新社屋として建設された「創価学会世界聖教会館」[SG 20] が落成[SG 21][SG 22]。
11月17日 - 会長選出委員会が開催され、任期満了となった原田会長が再任された(4期目)[SG 66]。
2017年(平成29年)
7月18日 - オンライン動画共有サイト「YouTube」で機関紙「聖教新聞」の公式チャンネル「seikyoshimbun」を開設し、動画掲載を開始。
9月1日 - 総務会およびSGI常任理事会・SGI理事会で「創価学会会憲」の制定を決議。会則の上位に位置づけられ、最高法規と規定される[76]。
11月10日 - 創価学会会憲署名式が行われ[SG 61]、会憲制定に合わせて改正された会則とともに11月18日(創立記念日)に施行された[SG 62]。
2018年(平成30年)
3月11日 - 同年3月16日に「広宣流布記念の日」から60周年を迎えることを記念した「世界青年部総会」が創価大学池田記念講堂を主会場に開催され、名誉会長・SGI会長である池田大作からのメッセージを発表した(長男の池田博正主任副会長が代読する形式)[SG 63]。
2019年(平成31年/令和元年)
5月1日 - 皇位継承にあたっての会長謹話を発表[SG 64]。
11月5日 - 総本部構成施設として建設された「創価学会総合案内センター」がオープン[SG 65]。
11月16日 - 聖教新聞社の新社屋として建設された「創価学会世界聖教会館」[SG 20] が落成[SG 21][SG 22]。
11月17日 - 会長選出委員会が開催され、任期満了となった原田会長が再任された(4期目)[SG 66]。
2020年(令和2年)
1月11日 - 世界広布新時代第45回本部幹部会で御書全集の新版を2021年(令和3年)11月18日に発刊する計画を発表[SG 67]。
4月3日 - 総本部構成施設として建設された「創価宝光会館」の竣工引き渡し式を実施[SG 68]。
8月26日 - 世界広布新時代第46回本部幹部会を広宣流布大誓堂で開催[SG 69]。
9月15日 - 総本部構成施設として建設された「創価宝光会館」がオープン[SG 24][SG 70][SG 71]。
9月27日 - 同年10月2日に「世界平和の日」から60周年を迎えることを記念した「世界青年部総会」が総本部の創価文化センターを主会場にオンライン形式で開催され[SG 72]、名誉会長・SGI会長である池田大作からのメッセージを発表した(長男の池田博正主任副会長が代読する形式)[SG 73][SG 74][SG 75]。
11月1日 - 世界広布新時代第47回本部幹部会を広宣流布大誓堂で開催[SG 76]、2021年の年間テーマを「希望・勝利の年」に設定した旨を発表した。
2021年(令和3年)
1月7日 - 本部幹部会の回数をリセットした第1回本部幹部会を広宣流布大誓堂で開催[SG 77]。
1月31日 - 回数をリセットした第1回青年部幹部会を東京戸田記念講堂(東京・巣鴨)を主会場にオンライン形式・無観客で開催され[SG 78]、名誉会長・SGI会長である池田大作からのメッセージを発表した(長男の池田博正主任副会長が代読する形式)[SG 79]。
3月22日 - 藤田観光から2月に売却された太閤園の所有権移転が完了[77][78]。
4月18日 - 第3回本部幹部会を東京戸田記念講堂(東京・巣鴨)で開催し、婦人部・女子部を統合した「女性部」発足[注 1][注 9]の発表、新版御書全集の概要説明[SG 83][SG 84]、学会創立100周年記念事業である「関西池田記念大講堂」の建設計画を発表した[SG 17]。
4月21日 - 聖教新聞紙上で「関西池田記念大講堂」の建設計画を公表[SG 85]。
5月3日 - 婦人部の名称を「女性部」に変更する改正会則を施行[SG 86][SG 87][注 1]。
11月17日 - 第80回総務会で女子部を女性部に統合する会則改正と「創価学会社会憲章」制定[注 10]を承認[SG 88][SG 89]。
2022年(令和4年)
1月27日 - 中央社会協議会で第26回参議院議員通常選挙比例区で公明党を支持することを決定。同時に1994年に決定した各種選挙における支援の基本原則について「人物本位」であることを再確認した[SG 91][79]。
日蓮正宗との関係
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日蓮正宗傘下の時代
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かつて創価学会は日蓮正宗の在家の信徒団体であったが、戸田が布教の利便と宗門である日蓮正宗を外護するため、宗門に宗教法人格の取得の許可を願い出た。そこで日蓮正宗は「新規に入会した会員は信徒として末寺に所属させること」、「(日蓮正宗の)教義を守ること」、「仏・法・僧の三宝を守ること」を条件に承諾した[59]。
昭和52年路線
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1977年(昭和52年)1月の第9回教学部大会において、池田は寺院の意義について、修行者が集い、仏法を研鑽し、布教へ向かうための道場・拠点と位置付け、その本義からして、「創価学会の本部・会館、また研修所もまた「近代における寺院」というべき」と語った[80]。
これに対し、宗門=日蓮正宗側は池田の主張は教義からの逸脱であると批判し、批判を受けて創価学会は謝罪した[81]。さらに山崎正友が独自に宗門若手僧侶を扇動し、批判活動を行わせた。山崎は創価学会への恐喝罪により懲役3年の実刑判決を受けている[82]。
創価学会の立場を支持する佐藤優によれば、学会と日蓮正宗の対立の「背景には、僧侶が『上』、一般信徒は『下』とする宗門の宗教観と、そのようなヒエラルキーを認めない民衆宗教である創価学会の基本的価値観の対立があった。」とする[83]。
学会幹部が日蓮正宗総本山大石寺に登山を行う事で一応は収まったものの、その後も日蓮正宗(宗門)僧侶や檀徒による批判は続いた。
「日達#日達と創価学会の軋轢」も参照
正信会との対立、日顕との同盟関係
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1979年(昭和54年)7月22日に管長細井日達が遷化(死去)。日達は生前、後継者を指名していなかった。67世法主として阿部日顕が登座すると学会を含めた日蓮正宗内は混乱に陥る。
学会に批判的な僧侶が「正信会」を結成、山崎正友も学会を退会して正信会に参加した。これに対し日顕は学会に友好的に接し、学会も日達から日顕に血脈相承が行われたと指導、池田も宗門を擁護する立場を取った。その結果、宗務院は正信会僧侶の大量処分に踏み切り、ついには批判派僧侶のほとんどが日蓮正宗から追放された。
後述する宗門との対立後は、池田や学会は日顕が受けたのはあくまでも内証(内定)であって、正式な儀式は行われておらず、後継指名は成り立たないと解釈を変更している。
日蓮正宗との対立・決別
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正信会問題では共闘した日顕との関係は悪化に向かう。1990年(平成2年)7月17日、日蓮正宗との連絡会議の席上、学会側が宗門や法主を批判して席を立つ[84][注 11]。同年11月16日、第35回本部幹部会における池田のスピーチに対し、日蓮正宗側は法主や僧侶を軽視するものだとして学会に説明を求める「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」文書を送る[84]。
「お尋ね」文章の内容は、池田が僧侶を批判して四箇格言を否定し、親鸞を好意的に評価した外道(仏教以外)の歌である『歓喜の歌』を評価した、などとして批判する内容で[70]、これに対し、学会側は「お尋ね」文書に対する「お伺い」文書を送付し、日蓮正宗側が自分たちを誹謗・中傷しているとして回答を拒否した[84][SG 48][注 12]。
これを受け、日蓮正宗は規約を改正し、1984年1月に再任されていた池田の法華講総講頭の役職を解くことにした[84]。1991年、創価学会は『聖教新聞』紙上等において日蓮正宗へ反論を行う[84]。同年11月、日蓮正宗は、「創価学会」と「創価学会インタナショナル」(SGI)を破門した[84][注 13]。
一方で、田原総一郎は、この対立の背景として、日蓮正宗の法主である日顕が先祖の墓を他宗の禅寺に建立していたことが判明したり、異性やカネにまつわる僧侶の醜聞が伝えられたりするなど、多くの学会員が宗門に対して不満を持つようになったのではないか、と言及している。[85]
創価学会と宗門の決別について、佐藤優氏は、世界広宣流布の観点から、創価学会がこれ以上、「宗門のくびきの下に置かれることは非現実的」[86]とし、 聖ウルスラ学院の梶田叡一理事長は、日蓮正宗による破門の内実は、「権威的で形骸化した宗門によってそれまで散々蔑まれてきた学会員の魂が、ようやく解放された」としている。[87]
シアトル事件
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1992年(平成4年)6月、『創価新報』・『聖教新聞』に「日顕が1963年(昭和38年)に法務で米国ワシントン州・シアトルに出張した際に、現地の売春婦と料金トラブルを起こして警察に通報され、身柄を拘束された」、「現地在住の学会員、ヒロエ・クロウが保釈手続きを行った」として、日顕を痛烈に批判する記事が掲載された。日蓮正宗側はそのような事実はまったく存在しないと否定し[注 14]、日米両国で訴訟が行われた。また、この報道は創価学会や日顕と敵対する正信会・顕正会の機関紙でも報じられた。
偽造写真事件
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破門後の1992年(平成4年)11月、学会は機関紙『創価新報』に、日顕が芸者と戯れる偽造宴席写真を掲載。日蓮正宗との訴訟に発展。地裁の判決では、学会側の写真偽造を認定し、賠償請求を命じた。しかし、学会側が控訴した高裁では、学会側による写真偽造を改めて認定したものの、原告に日顕の氏名が無い事を理由に原告が求めた損害賠償は認められなかった。日蓮正宗側は上告するも、最高裁で棄却された。
詳細は「偽造写真事件#訴訟へ」および「日顕 (日蓮正宗)#芸者写真問題」を参照
コーヒーカップ裁判
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1992年(平成4年)、神奈川県川崎市中原区にある日蓮正宗持経寺に息子の遺骨を預けていた創価学会員夫婦が、同伴した数人の学会幹部とともに息子の遺骨を受け取りに訪れた際、本堂で夫が遺骨を受け取り退出。しかし、5分後に再び本堂を訪れ遺骨が骨壷ではなくコーヒーカップに入っていたと主張した。その後の裁判では、数々の証言から創価学会員は敗訴し主張は退けられた。
詳細は「コーヒーカップ裁判」を参照
日蓮正宗住職交通事故死
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1994年(平成6年)7月、北海道内で日蓮正宗住職の運転する自動車と学会員の運転する自動車が正面衝突する交通事故が起き、住職が死亡、学会員が重傷を負った。現場検証で住職の全面過失と認定されたが、週刊新潮など一部週刊誌が交通事故は創価学会によって仕組まれたものとする内容を掲載。後に事故の当事者である学会員が週刊新潮を提訴、最高裁は週刊新潮の敗訴を言い渡した。
詳細は「日蓮正宗住職交通事故死事件」を参照
池田大作に対する狂言訴訟
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1996年(平成8年)、自らの金銭借款が原因で北海道創価学会の幹部を解任された女性が池田大作にレイプされたとの告発手記を『週刊新潮』に掲載。女性とその夫が池田を相手取り損害賠償請求の訴えを起こした。判決は「訴権の濫用による却下」として訴えそのものが退けられた[他 14]。『週刊新潮』誌上においても、山田直樹は「およそ5年に及んだ裁判は、なんと実質審理に入らないまま終結」と訴訟を振り返り[88]、「裁判を傍聴し続けた」という乙骨正生も「女性の訴えは時効であるとし、女性の夫の損害部分についても実質的な事実審理に入ることなく訴えを退けた」と記述している[89]。
正本堂解体
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1998年(平成10年)、かつて創価学会が寄進した大石寺正本堂が解体される。日蓮正宗と創価学会の分裂を象徴する出来事であった。
池田大作本仏論論争
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歴代会長の中でも、初代・牧口、第2代・戸田、第3代・池田の「三代会長」は、「広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である」と2002年(平成14年)の会則変更の際に定められた[批 2]。さらに、2016年(平成28年)11月7日に施行された改正会則の第1章第3条2項として、「『三代会長』の敬称は、『先生』とする。」と加筆明記された[SG 92]。ただし、三代の会長個人を本仏である日蓮と同等またはそれ以上に崇め奉ることは認められていない。池田は過去に聖教新聞紙上で「私などを絶対視してはいけない。」と明言している[SG 93]。一方、日蓮正宗側は「池田本仏論」として批判している。
詳細は「池田大作本仏論」を参照
冨士大石寺顕正会との関係
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創価学会と、顕正会の前身である妙信講は共に日蓮正宗内の一法華講という立場であったが、1970年代に学会が主導した大石寺正本堂の建立をめぐり、正本堂が日蓮の遺言(御遺命)にある「本門の戒壇」にあたるか否かの解釈で対立したのを皮切りに関係が悪化した。
妙信講は「非国立」の戒壇を認めない、と言うよりは「国家権力立」ないし「皇室立」でなければならない[批 3] とする解釈を顕正会に改名した現在も崩していないのに対し、学会と当時の宗門管長細井日達は「戦後民主主義体制の根幹たる主権在民の下では日蓮の指す国の概念は権力ではなく民衆である」[SG 94][90] という解釈のもと、正本堂落慶をもって御遺命は達成されたと宣言する。
詳細は「国立戒壇#創価学会」および「冨士大石寺顕正会#国立戒壇と本門戒壇」を参照
その後日達の仲介で両団体が協議し「正本堂は御遺命の戒壇にはあたらない」とする学会理事長・和泉覚(当時)の談話を聖教新聞に掲載することで一応和解。この談話は落慶法要直前の1972年(昭和47年)10月3日付紙面に掲載され、法要には妙信講関係者も出席した。しかし、和解した後も妙信講は国家権力ないし皇室による「狭義の」国立戒壇建立という思想を放棄せず、学会中央本部に対するデモなどの実力行使に踏み切る。これを受け日達は1974年(昭和49年)8月12日付で妙信講を講中解散処分に付した。
日蓮宗との関係
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創価学会を含む日蓮正宗系教団では日蓮宗を「身延派」と呼び、距離を置いている。
小樽問答
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1955年(昭和30年)、日蓮正宗妙照寺所属の創価学会小樽班の会員と日蓮宗妙龍寺との間で論争が起こった。日蓮正宗及び創価学会と日蓮宗は幹部を派遣し、小樽市公会堂で公開法論に臨んだ[6]。法論では日蓮宗側がスピーチするたびに激しいヤジが飛び大荒れとなった[91]。
他の宗教との関係
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戸田城聖が存命だった1950年代から、日蓮正宗以外のすべての他宗教・他宗派を一切認めず「邪宗・邪教」として批判してきた[92]。その攻撃の矛先は折伏大行進期には立正佼成会や天理教など日蓮・法華系あるいは神道系の新宗教団体、正本堂建立以降は妙信講(現・冨士大石寺顕正会)や正信会といった日蓮正宗系新宗教団体、そして破門後は日蓮正宗宗門へと向けられた。立正佼成会等が新日本宗教団体連合会や日本宗教連盟などを通じて他教派との交流を取っているのと異なり、2017年(平成29年)現在でも学会本体・公明党共に日本国内の他の新宗教教団とは協調するまでには至っていない[93]。
「四箇格言」および「立正佼成会#活動・動向」も参照
一方、日蓮正宗からの干渉により進捗に支障があったキリスト教やイスラム教など仏教以外の既存世界宗教との対話は、同宗からの破門と前後して徐々に軟化。その傾向が顕著になったのは「SGI憲章」が制定された1995年(平成7年)11月23日以降で、憲章の7番目の項目として「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。」と記述され、方針転換を正式に表明した。現在、創価学会インタナショナルは(日本を含む)世界192の国と地域に組織を持ち、特定の宗教以外が厳しく制限されているイスラム圏、社会主義国など一部地域を除いて全世界に活動の幅を広げるまでに至っている。
戦前の国家、神道との関係
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島田裕巳によると初代会長の牧口常三郎は皇太神宮の神札である神宮大麻を拝むことを拒否し焼却させたが、国家神道の全てを否定していたわけではないという[94]。第5回総会での全員座談会において牧口は靖国神社に参拝する意義を説き、靖国神社への参拝はご利益を得るためのものではなく感謝の心を表すものである点を強調した[94]。さらに牧口は、天照大神や代々の天皇に対して「感謝し奉る」と言い、昭和天皇を現人神と認め、「吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが純忠だと信ずる」と述べている[94]。
また、現代ビジネス(Web版週刊現代)によると、当初、創価学会の前身である戦前の創価教育学会は治安当局と左翼運動取締りにおいて協力的な関係にあった[95]。創価教育学会は「赤化青年の完全転向は如何にして可能なるか」とうたったパンフレットを発行し、治安当局との蜜月ぶりを会員獲得に向けた宣伝材料にもしていた[95]。牧口らは警視庁特高課やその元締めである内務省警保局、思想検事ら治安当局と緊密に連絡を取り合っていた[95]。しかし、共産党を壊滅させた後、治安当局が次に取り締まり対象としたのは宗教団体であった[95]。一転して創価教育学会は特高警察の弾圧を受けることになった[95]。ただしそれは創価教育学会が反戦・平和を訴えたからではない[95]。神宮大麻を拝むことを拒否し焼却させるなどしたからである[95]。
当時、大方の宗教団体がそうだったように、日蓮正宗も戦争には協力的な立場だった[96]。それは日蓮正宗の在家信徒団体である創価教育学会も同じであった[96]。例えば、創価教育学会の機関紙「価値創造」の第6号には、日蓮正宗宗務院が1942年1月21日付で出した布告を転載していた[96]。その布告の内容は、日蓮正宗が2月8日午後、大石寺において全国から僧侶や檀信徒を集め「大東亜戦争戦勝祈願大法要」を開催し、日蓮正宗にとって信仰の根本である「戒壇の大御本尊」の御開扉に続き、「戦争完遂宣誓式」を行うというものであった[96]。さらに1941年10月の「価値創造」第3号ではアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』について大きく紙面を割いて紹介し、ヒトラーを「現代の転輪聖王」と持ち上げ、理想的な君主とみなしていた[96]。
1942年になると、日本軍が南方で緒戦の勝利を重ねていたためか創価教育学会の幹部達から勇ましい発言が相次ぐようになる[96]。『価値創造』の後継誌として出された小冊子「大善生活実証録」(国立国会図書館に覆刻版が所蔵されている)によると、総会の開会にあたり幹部の一人が「陛下の御稜威の下、我が陸海軍将兵が緒戦以来、赫々たる戦果を挙げている事は、吾等の衷心より感激に堪えない次第である……我国としても、もう寸毫の妥協も許されず、
勝つか負けるかの一時のみ、否、断じて勝つの一手あるのみである」と挨拶[96]。閉会では別の幹部が「いまや、皇国日本か北はアリューシャン群島方面より遥かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又蒙彊満州に至るの広大なる戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐くが戦場精神によって一丸となり、ひたすらに目的達成に邁進しつつあることは、すでに皆様熟知されるところである」と締めくくった[96]。また、総会はいつも皇居に向かっての遥拝で始まり、会の終わりには軍歌が歌われた[96]。
一方、創価学会は「学会が軍部政府におもねっていたとすれば、牧口会長も戸田会長も、逮捕されることなど全くなかった」とする見解を取っている[SG 95][注 15]。その見解によると、1943年6月、牧口は戸田とともに日蓮正宗総本山・大石寺に召喚され、当局による弾圧を懸念した宗門側から「神札を受けるように」と勧められるも、日興の残した遺戒にある「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」[SG 97] の精神を貫き通し、
「承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません」と言って拒否した[SG 98]。それから1か月後、神札の受け入れを拒否した行為が不敬罪と治安維持法違反にあたるとして、牧口や戸田、他の幹部ら21人は逮捕・投獄された[SG 99]。幹部たちは退転していったが、牧口・戸田の2名だけが最後まで信仰を貫き通した。牧口は1944年11月18日、学会の創立記念日にあたるこの日に東京拘置所で「殉教(=獄死)」し、1人生き残った戸田は終戦1か月前の1945年7月3日に豊多摩刑務所から出獄[注 16]し、弾圧によって壊滅状態だった学会の再建に挑んだ[SG 103] というものである。
高校の時池沼の養護学校にボランティアにいったんだが、
水泳の時間に池沼が女の子押し倒して腰カクカク。
俺たちの唖然、10秒くらいで職員が取り押さえる
(^q^)のああああああああああ!!!
って言って離されたが、女の子の股間部分は横にズラされて(ちょっと入ってたぽい)
べっとり一回の射精とは思えないほどの精子が付いてた。
それで女の子泣きながら精子流すために外にあるシャワー行って洗おうとしたら
見学に着てた70くらいの池沼母が日傘で女の子をボコボコにした。
母「うちの池沼ちゃんの精子がそんなに汚いっていうの!?
うちの池沼ちゃんの精子がそんなに汚いっていうの!?」
結局女の子は二針縫って帰って1年休学。池沼の子供妊娠してたらしい
地域では、同じ県内で隣接してるA市(私が住んでいる市)、B市(東隣)、C市(西隣)に県立の養護学校があるけど、
A市、B市内の養護学校は専用のスクールバス有
C市内の養護学校は専用スクールバスはなし
聞いた話だとC市では池沼の飼い主が十数年前に
「専用のスクールバスでは社会性が身につかない。路線バスで通学させたい」
と言い出して、スクールバスは廃止されたそうだ。
ちなみにこの養護学校には、C市のターミナル駅から大学病院に行く一路線しか通らないので、
通学時間と通院患者の利用時間が重なり、大変なことになっている。
乗車客の行列を無視してさっさと席確保。ゆっくりとステップを上って乗車するおばあさんを突き飛ばして、さっさと座る。
自分の席(自分だけの脳内ルール)が取られていたらパニック起こして大騒ぎ。
バスの中で暴れる、池沼同士でサカリはじめるなど、本当にやりたい放題。
※ここの生徒は駅のベンチでもサカってます。雄雌の池沼が駅のベンチで脱いでサカッてる。
所沢から大宮行きに乗って通学してたけど、
なんか池沼の学校があるみたい。
毎朝5~6人と遭遇したよorz
凄い混むバスだったんだけど、
一人が真っ先に奇声発しながら走って乗り込んで(順番無視の特攻)、
一番後ろに行ってカバンやら荷物やらで仲間の席確保。
おもっくそ睨んだら一瞬怯んだけど、
次の日からも特攻は変わらなかった。
こいつらバス停で池沼同士で抱き合ったり、
乳揉みしだいてたり、
本っ当にキモかった
職場にすごく好きな子がいる。
ちっちゃくって、ちょっと舌っ足らずで、あどけなくて、笑顔がすごくかわいい。
今日、彼女がちょっとかがんだとき、チラッとブラが見えた。ピンクだった。
刺繍?レース?なんか綺麗な柄で大人っぽい感じ。パンティもおそろいなんだろうな。
服の上から彼女の下着姿を想像したりしてた。ラッキーな一日だ、とか思いながら。
昼休み、彼女が同僚に嬉しそうに話しているのが聞こえた。
「今日、彼氏のお誕生日で食事に行くんです」
とたんに目の前が真っ暗になった。
食事の後は当然セックスするだろう。彼氏の誕生日なんだから。
つまり、さっき見えたブラは、夜には彼氏に脱がされるために選んだものだったんだ。
彼氏は、おれが目の端に少し映っただけでボッキしそうになったその布切れを、何ら
感ずることなく彼女から剥ぎ取り、恥ずかしがって胸を隠す彼女の両腕を優しくほどき、
おれが決して見ることはないそのブラの中身にくちづけ、吸い、軽く噛んだりするんだろう。
おそろいのパンティには、彼女の期待と興奮で濡れ、染みができている。
その脇から彼氏は指を差し込む。
ぐちょぐちょに濡れたパンティーを彼氏が脱がそうとするとき、
彼女は脱がせやすいようにちょっと腰を浮かせたりするだろうか。
そして彼氏は、おれが決して触れることも見ることもかなわないその奥に舌を這わせ、彼女の味を味わうのか。
そんなことをされると分かっていて、どうせ脱がされると分かっていて、
彼女はそのブラとパンティを彼氏のために選んだんだ。
どこがラッキーな一日だよ。
昼休み、マックにでも行ってりゃ良かったよ。ちくしょう
3年程好きだった派遣の子が出産で辞めた
予定日を聞いて種付けの日を逆算した
あの日か
あの日見知らぬ男の下で股開いてアンアン喘いで涎まみれ汗まみれで口吸いあってたのか
これじゃ子供出来ちゃうよって一度抜こうとする旦那を蟹バサミで止めて
そろそろ作ろう?だからね?って中田氏させたんだ そして後ろからのが
受精にいいかもしれないって後ろから時間をかけてやって、腰上げるといいんだっけって
言ってたのに最後は気持ちよくてふにゃふにゃとベッドに潰れちゃって胸もベッドでぺちゃっとなって
それを旦那は後ろから手入れてぐりぐりしながら背中全部で密着したまま馬鹿みたいな量を出す
でも最後は顔見えてるほうが安心出来るからって向かい合って安心して中だしされて
あんなに清純で肌白くて腰細くて綺麗で天然で素敵な人だったのに
好きだったのに
元同僚の派遣の子に赤ん坊の写真が届いたらしいが俺は見ない
1回のSEX(挿入時間)が、まぁ平均15分としよう。
1分間でのピストンがおよそ120回(2/sec.)と仮定すれば、
1回のSEXで15×120=1800回はチンポを出し入れされる事になる。
平均的なカップルが週2回、一晩2回SEXすると仮定するならば、
一月に2×2×5×1800=36000、およそ36000回チンポを
マンコにピストンされていると概算されるわけだ。
これを、交際している年月に置き換えてみると、3ヶ月男と付き合っている女の子は10万8千回、一年間付き合っている子は129万6千回、
3年間付き合っている子など驚べき事になんと388万8千回もチンコを出し入れされている計算になる。
この事実、全く持って驚愕するほか無いといえよう。
クリスマスの日に、ある女の子に3つのプレゼントが届きました。
1つ目の箱を開けると中に「靴下」が入ってました。
地味な紺色の靴下だったので、女の子は不満そうな顔をしました。
ふっと窓の外を見るとサンタがニヤニヤしてました。
2つ目の箱を開けると「体操服(上)」が入ってました。
なぜこんな物が? と女の子は不思議そうな顔をしました。
窓の外のサンタを見ると、またニヤニヤしてました。
最後の箱を開けると「ブルマ」が入ってました。
とっくにブルマは廃止されていたので、女の子はブルマについて知りませんでした。
女の子がブルマを穿く様子がないの見ると、サンタは窓から侵入して
女の子に靴下と体操服とブルマを着せて、興奮した様子で襲いかかりました。
サンタは体操服フェチの変態だったのです。
米国海兵隊 vs フェラチオザウルス
「アウチ!オゥシット!足が…」
「何してるスティーヴ!早く掴まれ!奴が来てるぞ!」
「あ…ああ…うわぁぁぁぁっ!」
「馬鹿!早くしろ!早く…」
『んもぉぉぉぉぉぉん!』
「No…Noooooooあ゙あ゙あ゙あ゙らめっ!イグッ!イグぅぅぅぅッ!!」
「スティーヴぅぅぅッッ!」
「止せ!もうアイツは助からないッッ!」
「畜生!離せ!スティーヴがッ!」
「馬鹿野郎っ!お前まで吸われちまうぞ!」
「あばばばば!イグぅ!おちんぽイグぅぅッッ!」
「隊長…スティーヴは…俺とアイツは訓練所から一緒だったんです…」
「ひぎぃぃっ!おちんぽギモヂイイ!射精るっ!また射精ますぅぅぅぅ!」
「マック…」
「ベトナムでもアフガンでも俺達は生き残ったんだ…なのにこんな所で…畜生…」
「もう無理ィ!射精ません!射精ないから止め…ああああやっぱり射精るぅぅぁぁぁぁッッッ!」
「マック、ならお前は生きてスティーヴの仇を討て!」
「はぁぁぁぁんっ!もうらめぇ!おちんぽ取れる!お兄ちゃんボク妊娠しちゃうよぉぉぉっッッッ!」
中学生のカップルはお互いの肉体を求め合いながら何度も何度も生のおち●ちんをおま●こから出し入れし、最高の快感を味わいます。
中学生同士の若い性器がニュルニュルとこすれあう感触を直に感じることができるのでとても気持ちよいはずです。
中学生の女の子のおま●こは締め付けも強いのです。女の子のおま●この粘膜が男の子のおち●ちんをぎゅうぎゅう締め付け快感を与えます。
そのうえ膣内のヒダが男の子の射精を促すために、おち●ちんに絡みつき、おち●ちんを刺激します。
それによって気持ちよくなった男の子はガマン汁を出しながら女の子の膣に、おち●ちんを出し入れし続けます。
激しく興奮している中学生同士の男女の結合部からは愛液があふれ出すはずです。そうしているうちに射精しそうになってきた男の子はピストン運動を止め、
おち●ちんをおま●この奥まで深く挿入します。そして中学生の男の子は絶頂に達し、同級生の女の子のおま●この中で射精します。
おち●ちんを脈打たせながら気持ちよさそうに女の子のおま●この奥に「びゅっびゅっ」と大量の精液を送り込むのです。
まだ中学生である男の子は本能に従って女の子のおま●こに深くおち●ちんを突っ込んで射精しているため、おち●ちんに女の子のおま●この粘膜が絡みついたままです。
温かくて締め付けが強いおま●こに根元までおち●ちんをいれ、その状態で思う存分中出しをするわけですから相当気持ちよいはずです。
そんな肉体的な快感を味わうと同時に、男の子は自分の射精した精液が、同級生の女の子のおなかの中に流れ込んでいることを実感しています。
同じ中学生である女の子のおなかの中に自分の遺伝子を送り込み子孫を残す行為を行っていることを実感し、性的な本能は満たされます。
同級生の女の子と子孫を残す行為を行っていることを実感している男の子は強い満足感を味わい、性的な興奮も最高潮となるのです。
また、男の子が射精しているとき、女の子は自分のおま●こに挿入されているおち●ちんが激しく脈打っているのを感じることができます。
それにより女の子は、男の子が自分のおま●この中に精子を出していることを実感し、激しく興奮します。
男の子と女の子は二人っきりになるとセ●クスを始めます。
裸になって抱き合って、ペ●スを膣の中に出し入れさせるのはとっても気持いいのです。
とってもエッチで気持ちよいので、部屋で二人っきりになった男の子と女の子はセ●クスをするのです。
男の子と女の子が二人っきりになるとセ●クスをするのはごく自然なことです。
多くのカップルは、正常位でセ●クスをします。
正常位とは女の子がベッドの上で仰向けになって股を開き、 女の子の上に男の子が覆いかぶさるようにして勃起したペ●スを膣に挿入して腰を振ってセ●クスをする体位です。
男の子と女の子の密着度が高く、お互いの身体の感触や体温を感じあうことができます。
男の子が女の子の上に覆いかぶさり、女の子を抱きしめ腰を振る姿は、男の子の女の子への強い愛情を感じさせます。
女の子にとって正常位は男の子に抱かれ安心できる体位です。
こんな素敵な体位で、多くのカップルたちはセ●クスをしています。
お互いの肉体を強く求め合う男の子と女の子は、正常位で強く抱き合い、 濃厚なキスをしながら腰を振ってセ●クスをします。
男の子のペ●スは興奮と快感でビンビンになりますし、女の子の膣もビチョビチョになります。
最高に興奮しているときのペ●スと膣の結合の感触はとても気持ち良いものです。
男の子が女の子を抱きしめてセ●クスをするとき、女の子の身体のどこを抱くかで挿入感が変わってきます。
普段女の子の首や、背中を抱いている場合は、腰やおしりのあたりに腕を回して抱きしめ、セ●クスをしてみてください。
ペ●スと膣の角度が変わるため、ペ●スの挿入感が普段と変わってきます。普段はニュルニュルした挿入感ですが、 腰を抱くことでズボズボした挿入感になります。
膣とペ●スの摩擦が増し、膣粘膜のヒダがペ●スにまとわりつく快感が強くなります。
セ●クスをし、お互いの性器同士をこすり合わせることによって二人は性器が気持ちよくなってきて、とっても幸せな気分になります。
また、セ●クスは男の子と女の子が裸で抱き合ってする行為なので、 お互いの肌の感触やぬくもりを全身で感じあうことができるのです。
セ●クスをしている男の子と女の子は、お互いにとっても気持ちよい気分になれますが、 男の子は性器が気持ちよくて気持ちよくてたまらなくなってくると、ある特別なことが起こります。
それは射精です。射精とは、男の子がペ●スから精液を勢いよく発射する現象です。
ペ●スは脈打ちながら、精液を「どぴゅっ、どぴゅっ」とリズミカルに何度も発射します。
精液が出る瞬間、男の子は激しい快感を得ることができ、とっても気持ちよくて幸せな気分になります。
セ●クスをして、男の子が射精し、精液が女の子の膣に送り込まれると、女の子は妊娠します。 つまり、赤ちゃんができるのです。
子供を作りたくなったカップルは、セ●クスをし、男の子のペ●スから女の子の膣内へ精液を送り込みます。
膣内射精や中出しと呼ばれる行為です。男の子にとって、中出しはとても気持ちよいものです。
お互いの性器を直接結合させ、膣の奥までペ●スを突っ込んで思う存分膣内に射精することは、強い快感と満足感を得ることができるのです。
女の子にとっても、中出しの瞬間の、ペ●スの脈動や送り込まれる精液の感触を味わうことによって、 自分の膣内に男の子の精液が送り込まれていることを実感し、深い満足感を得ることができます。
そして、二人は愛ある中出しセ●クスをしたことによって、お互いの精子と卵子が結びつき、 二人の愛の結晶である新しい命が生まれることを感じ、とても幸せな気分になるのです。
セ●クスは大人になった男女がする行為です。しかし、最近ではセ●クスに関する情報が簡単に
手に入るようになり、中学生や高校生などの子供でもセ●クスを楽しむことが多くなっているようです。
男女ともに、小学校の高学年くらいになると、第二次性徴が起こります。
第二次性徴が起こると、男の子は体つきががっしりとし、声変わりが起こり、陰毛などが生えそろいます。
また、女の子は体つきが丸みを帯びるようになり、肉付きがよくなり、お●ぱいも大きくなり、
男の子と同じく陰毛が生えそろいます。第二次性徴により、男女それぞれの体つきの特徴に変化ができてきます。
そして何より、性器が大きく発達します。男の子はペ●スの包皮が剥けるようになり、ペ●スや睾丸が大きくなってきます。
そして、睾丸では精子が作られるようになり、男の子は射精するようになります。
また、女の子は男の子のペ●スを挿入できるように膣が成熟し、排卵が起こるようになり、生理が起こるようになります。
このような身体の変化は、すべて男の子と女の子がセ●クスするために起こります。
第二次性徴が起これば、小学生や中学生同士であっても、セ●クスをして
性的な快感を味わうことができ、子供を作ることができるのです。
男の子と女の子は付き合い始めるとセ●クスをするようになります。
裸になってベッドの上でギュッと抱き合って愛しあいながら、
ペ●スを膣に出し入れさせて、男の子も女の子もとっても気持ちよさそうにセ●クスをしています。
男の子は女の子に覆いかぶさって気持ちよさそうに一生懸命腰をふって、
女の子の膣にペ●スをニュルッニュルッと出し入れさせて女の子の膣の中の感触を味わいつつ、
女の子を気持ちよくしてあげようとします。
女の子は股を広げて男の子のペ●スを膣に受け入れ、男の子のペ●スが膣の奥まで出し入れされる度に、
目くるめく快感を感じ、その気持ちよさに身体をよじらせます。
付き合って、結婚してもよいと思う相手とは、生殖行為としてのセ●クス、中出しセ●クスを楽しみましょう。
生殖行為としてのセ●クスとは、一切の避妊をせずに行うセ●クスです。
ただし、子作りのためにセ●クスをするのではなく、あくまでも恋人同士でセ●クスをする気持ちよさを味わうために行います。
女の子の膣の中で射精をし、男の子が女の子の膣からペ●スを抜いた後も、
男の子が出した精液が女の子のお腹の中に残るようなセ●クスをするのです。
性欲が満たされるまで、連続で何度もセ●クスをし、精液はすべて女の子の膣の中に送り込むようにします。
非常に興奮した激しいセ●クスを楽しむことができるでしょう。
彼氏・彼女と、コンドームを付けない、ペ●スと膣粘膜が直に触れ合う、とっても気持ちいいセ●クスを楽しみましょう。
ペ●スと膣をニュルニュルと直に触れ合わせ続け、ペ●スが気持ちよくてたまらなくなってきたら、
女の子の膣の中で射精し、精液を女の子の身体の中に送り込むのです。
もちろん、妊娠する可能性があります。しかし、お互いに妊娠してもよいと思っていれば問題ありません。
コミュニケーションとしてのセ●クスも気持ちよくて楽しいものですが、
若いうちの生殖行為としてのセ●クスはさらに気持ちいいものです。
結婚した後の夫婦間の中出しセ●クスよりも、恋人関係の異性との中出しセ●クスの方が気持ちよく感じます。
夫婦間の中出しは、特に子作りのための中出しは、やって当然という認識で行うため、興奮が薄まります。
セ●クスは目的意識を持たずにやったほうが興奮しますし、気持よく感じられるものです。
愛し合い、子供を欲しいと思っている男女のカップルがいます。
キスをし、愛撫し合い、そして二人はお互いの精子と卵子を受精させるために、
コンドーム等の避妊具を使わずに直接硬く勃起した生のペ●スを女の子の膣に挿入し結合します。
ピストン運動によりペ●スを膣から激しく出し入れし、二人はお互いに生の性器の感触を味わい快感を感じ、
またそれによってさらに興奮が高まります。ペ●スと膣が直に触れ合うニュルニュルとした感触はとても自然で気持ちいいものです。
ペ●スを膣から出し入れするたびに、男の子はペ●スの先端の穴からカウパー液を出し、女の子は膣から愛液を分泌します。
そして、カウパー液と愛液が膣内で混ざり合い、潤滑油として二人の結合部から溢れ出します。
そうして二人の結合部はビチョビチョになり、部屋には「ヌチュッグチュッ」と性器同士が擦れあういやらしい音が響きます。
そしていよいよ二人の快感と興奮が絶頂に達すると、男の子はペ●スを女の子の膣の奥まで力強く挿入します。
そして、男の子はペ●スを脈打たせて「どぴゅっどぴゅっ」と勢い良く射精し、
精液をペ●スを通して相手の女の子の膣内に送り込みます。子供を作るための膣内射精であるため、
男の子の快感と興奮は最高潮です。男の子は自分の精液を好きな女の子の膣内へ直に送り込むことで
「女の子を孕ませる」ことの快感と満足感を味わえます。女の子は脈打つペ●スの感触、
好きな男の子の温かい精液を直接膣内に射精されたことによる満足感で最高のオーガズムを感じ、
子宮が痙攣します。やがて男の子は精液を出し切ると射精がおさまります。そしてしばらくの間、
男の子と女の子は膣内射精の興奮と快感の余韻に浸ります。ペ●スを膣に挿入したままキスをしたり、
ゆっくりとペ●スを膣から出し入れしたりしてセ●クスの快感の余韻を味わうのです。
余韻を堪能し、男の子は女の子の膣からペ●スを抜きます。
姉ちゃんに中出しってどんな感じって何気なく聞いてみた
そしたらいつもは強気でサバサバしてる姉ちゃんが「バッカじゃないの」って顔真っ赤にして逃げてって
取りあえず母ちゃんに飯って言われたから家族で飯食ってたんだけど
姉ちゃんは話しかけてくるどころか目も合わせてこない
ちょい怖い時もあるけど基本仲良くて大きいケンカはした事ないからヤバい事聞いたのかと悲しくなった
風呂入って姉ちゃんに謝ろうと思って部屋行って「姉ちゃんさっきは変な事言っちゃってゴメンナサイ」と真剣に謝った
姉ちゃんも「そういう年頃だから興味あるの仕方ないよね、でももう変な事は言わないでね」と許してくれた
なんか変な間があってこのまま出てくのも気まずいから姉ちゃんのベッドに寝転んで漫画読んでたら
姉ちゃんがこっちをチラチラ見てるの気づいた(まだ怒ってるのかな)とか思いながら気づかないふりして漫画見てたら
姉ちゃんが「さっきの話だけどさ・・・」と言い出して、やっぱまだ怒ってるのかと思って
ベッドに座り直して「本当にゴメンナサイ」とまた謝ったんだけど違うみたい
「どうしたの?」と俺が聞くと姉ちゃんが俺の右隣に座ってきて姉ちゃんの体温が伝わってきた
「・・・だから、さっきの話だよ」姉ちゃんが小声だから顔が近づく
なんか知らないが匂いと体温でドキドキしてきて催眠術にかかったみたいになって
「さっ・・きの・・は・・な・・・し」と繰り返してた
姉ちゃんが俺の左手を掴もうとした時に胸が当たって体に電気が走った
姉ちゃんの胸は何回か見た事あるし家族だから何も思わないのにいつもと違った
姉ちゃんの顔は更に
私はただの民家覗きを趣味にしているおっさんなのですが、近所の家で中学生のセ●クスを見ました。
その子は小学生時代から観察している子なのですが、中学生になって、すこし不良っぽい友達と遊ぶようになりました。
田舎なので、子供部屋は離れで、最近は夜でも友達が来たりしていて、そこで彼女を含め、二組のセ●クスを見ました。
最近の中学生は大人顔負けのセ●クスをするので驚きましたが、子供の頃から知っている女の子のを見たのは、なんだかショックでした。
親のような気持ちになりましたが、しっかり勃起はしてました。
ちなみに彼女の名前はアズサ。
身長155くらいの痩せ型。胸もお尻も小さく、中学生っぽい肉付きのよさもない。
田舎だから、黒髪のままでセミロング。若いタレントがわからないから、例えられないけど、目の大きな整った顔立ち。
そんな美少女が、真夜中に来た彼氏のチ●ポをくわえたり、セ●クスしたりしていた。
フ●ラは慣れた感じで「もう!ユウキ!ちゃんと洗ってんの?汚れてる!」とか言いながらくわえて、手コキしながらあっという間にイカせてた。
しかも口内射精のあと、彼氏の太ももを叩きながら「ユウキ出しすぎ!なんでこんなに出るのぉ!」とか言ってた。
セ●クスはジャージの下だけ脱がせて、上はめくり上げて、ろくな前戯もなく挿入。
大きな声は出せないから、赤い顔で、あえぐのは我慢してるみたいで、まだ痛いのか、時々顔をしかめる。
たいてい正常位とバックだけ。「ユウキ好きなのっ、好き!好き!」言いながら、最後は「中に出して!アズサでイって!」とどこで覚えたんだというセリフ。
まぁ「中に」といっても、ゴムは着けてる。男は毎回「アズぅアズぅあぁ~あっあっ」とあえいでフィニッシュ。
そのあと、彼女が抱き締めて、彼氏の頭を撫でたりするのに萌える。
いつもレースのカーテンごしに見ていて、声は通気孔から丸聞こえ。プレハブみたいな離れだから、普通にしていても聞こえる。
もう一組は、彼女が友達のカップルに部屋を貸したようで、同じ中学生同士なのに、離れが軋む激しいセ●クスでした。
残念ながら、女の子がちょいぽちゃのあまり可愛い子ではなかったのですが、胸を鷲掴みされながらガンガン腰を打ち付けられてました。
一回の時間は短いものの、彼氏は四回も射精していました。
体位もいくつか替えて、携帯でハメ撮りしたり、手首をしばったりもあって、田舎の中学生はある意味すすんでいます。
メロ手は激怒した。必ず、かの邪痴棒虐の女王を除かなければならぬと決意した。
メロ手には性事がわからぬ。メロ手は、村の牧手である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども淫乱に対しては、人一倍に敏感であった。
きょう未明メロ手は村を出発し、野を這い山這い、十里はなれた此のシヨクシュの市にやって来た。
メロ手は父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。
この妹は、村の或る律気な一牧手を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。
メロ手は、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。
先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら跳ねた。
メロ手には竹馬の友があった。セリヌンティウ手である。今は此のシヨクシュの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
歩いているうちにメロ手は、まちの様子を怪しく思った。
ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。
のんきなメロ手も、だんだん不安になって来た。路で逢った若い手をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。
若い手は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老手に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老手は答えなかった。
メロ手は両手で老手のからだをゆすぶって質問を重ねた。老手は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「女王様は、触手を犯します。」
「なぜ犯すのだ。」
「淫心を抱いている、というのですが、誰もそんな、淫心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの触手を犯したのか。」
「はい、はじめは女王様の妹婿さまの愛玩触手を。それから、御自身のお世嗣の愛手を。それから、妹さまの愛手を。
それから、妹さまの御子さまの愛手を。それから、皇婿さまの愛手を。それから、賢臣のアレキ手様の愛手を。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。触手を、信ずる事が出来ぬ、というのです。
このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、手質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、犯されます。きょうは、六手犯されました。」
聞いて、メロ手は激怒した。「呆れた女王だ。生かして置けぬ。」
吾輩は触手である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でキーキー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは魔女という人間中で一番淫乱な種族であったそうだ。
この魔女というのは時々我々を召喚して犯して穢すという話である。
しかしその当時は何という考もなかったから別段いやらしいとも思わなかった。
ただ彼女の乳房に挟まれてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。
乳の上で少し落ちついて魔女の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。
この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。
その後触手にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出くわした事がない。
のみならず股の真中があまりに陥没している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと愛液を吹く。
どうも濡れぽくて実に弱った。これが人間の得るオーガズムというものである事はようやくこの頃知った。
この魔女の乳の内でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。
魔女が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。
到底助からないと思っていると、ぐちゅりと音がして眼に汁が入った。
それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
ふと気が付いて見ると魔女はいない。たくさんおった兄弟が一匹も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。
その上今までの所とは違って無暗に暗い。眼を明いてもわからぬくらいだ。
はてな何でも容子がおかしいと、のそのそ這い回って見ると非常に熱い。
吾輩は乳の上から急に膣の中へ挿れられたのである
中1の時に「おち●ちんを舐めることが出来たら100円やる!」と言って
当時小1の妹にやらせたのが最初のフ●ラだった
自分の部屋で、オレは椅子に座って、妹を膝まずかせてやらせた。
初めは、おち●ちんをペロペロ舐めるだけだったんで、くすぐたかったよ
「おち●ちん口の中に入れて舐めてみ」って言って
小さい口の中に入れたら、めちゃ口の中が熱く感じて気持ちよく、
それだけ、おち●ちんがとろけそうな感じがし、「やばい!」と思って
おち●ちんを口から出したら、すぐにいってしまった。
妹のあごから胸に掛けて、何度も発射した。
妹はびっくりして泣きそうだったけど、
「女の子におち●ちん舐めてもらうと出るんだよ」って教えて
「おしっこじゃないし、これ飲むと美人になるんだぞ」と言って
あごに付いたのを舐めさせた。
毎日では、無いけど週に3~4回はやらせてた。
でも、100円払ったのは最初の頃だけ
3回目くらいに、やらせた時に
「お前の、おしっこの穴とかお尻の穴舐めたら100円くれるか?」って聞いたら
「うん、いいよ」って返事だったので、舐めてやった。
最初は、くすぐったがっていたけど、だんだんとおとなしくなってきた。
そんな事を何回かやってると、妹も舐めてもらうと気持ちいいのが判ってきたし、
オレもどこを舐めるといいのかが判ってきた。
そのうちに、舐めたら舐め返すって事になってお金のやり取りは無くなった。
当然の成り行きでしました。
舐めさせてから、2~3ヶ月の頃に、おち●ちんの頭半分位までは入れてみたけど
痛がるので、穴の入り口でおち●ちんを擦って、穴の中に発射してた。
今では完全に挿入できるけどね。
春には中学です
オレは大学なんで、一人暮らし始める予定だし、もうやめようって話してるけど
妹に初潮が来た時にやめようって、一度話してて結局ズルズルしてしまったので
止められるかどうかは微妙
小6の林間学校は山にテントを張ってキャンプでしたが、初めてドラム缶風呂にはいりました。
各自のテントで全裸になり、腰だけ隠れるぐらいの小さいタオルを巻いてドラム缶までいくのですが
女子のたくさんいる前を通っていくので、とても恥ずかしいです。
そこはシートで仕切ってあるのでみんなからはみえませんが、中に入ると女の担任(24歳)と
女子が2人、薪を入れたり水を足したりしていました。そして担任が「タオルはずしてはいりなさい」
と言われ"エー、マジかよ!”て感じでした。女子の前でフルチンになど、なったことないし、一人は僕の大好きな子でした
恥ずかしすぎですが、みんなやっているのでしぶしぶタオルを取りはいりました。
ドラム缶は少し大きめで2.3人入れるぐらいで、僕の前に二人が入っていて一人入れ替わりに出て行きました
今出たやつは担任から「しっかり拭いていけよ」と言われ、すぐに戻りたそうでしたが女子に背を向け
恥ずかしそうに拭いていました。しばらくするともう一人もいなくなり、出席番号最後の僕の後は誰もいません。
そのときふと、女子はどうやって入るんだろうと考えていると、なんと最初の女子が上は体操服、下は小さいタオルを腰に巻いてやってきました
当然下はブルマのままだと思っていたのでびっくりです! そして僕が出てから服を脱ぐのかと思ったら、担任は
「早く脱いではいれ。後がつかえてるぞ。タオルは湯船が汚れるからはずしとけ。」と信じられないことを淡々というのです。
その女子もビックリしたようで、ゆっくり体操服を捲くりますが胸の下辺りで止め、僕のほうをちらちら見てなかなか脱ごうとしません。
見かねた担任が「早くしろ!」と一喝するとあわてて全裸になりこっちへ入ってくるのです。
当然手で胸と股間を隠しながら入ろうとしますが両手でドラム缶の淵を持たないと入りにくい形になっていたので、仕方なく両手を淵におくと
お●ぱいも割れ目も丸見え状態!
普段見ることのできない同じクラスの女子の全裸をこんなに間近に見れて興奮し過ぎて、一瞬であそこがびんびんになりました。
すると2番目のじょしも来て、同じように担任から言われ、半泣き全裸で入ってきました
二人ともお●ぱいは結構大きくて一人は下の毛がうっすら生えていて、必死で手で隠しているのが
余計に興奮させ、"これでもか”と言うほど僕のあそこはパンパンにふくれあがってしまい湯船からでられません。
そうこうしている内に3人目が来て、担任が「そろそろ出ろ。」とぼくはおこられました。
仕方なく手であそこを隠しながら出ようとしましたが湯船が深くて両手でドラム缶の淵を持たないと出られません。
もたもたしてると担任からまた怒鳴られると思い、思い切ってちんちん丸出しで出ました。
すると僕の大好きな女の子はしっかりと見ていて、僕と目が合うとすぐに下を向いてクスクス笑っていました。
もう僕は女子の裸を見たことと、好きな子にびんびんのあそこを見られて益々興奮しました。
卓球の短パンてかなり短くて 女子なんか太もも丸出しなのよ。体操座りなんかしたらまじで股間がヤバイ。
大学3年生の夏休憩時間に、みんなで床に座って喋ってたんだがA美の股間をみるとかなりのところまで、
太ももが露出してる。てゆうか尻も半分でてるぐらい、上にせりあがってたのよ
下着もたぶん汗で濡れてたんだとおもう。股間をみたら太ももの付け根、というかマ●コの横がみえる。
まわりで喋ってる男どももチラチラみてるがA美は気づく様子まったくなくおしゃべりしてる。
話し掛けられ、向きを変えるたびに、短パンが上にずりあがってさ、パンツは濡れて食い込んで見えないからもうノーパンみたいなかんじ。
おれもついソコをみてしまったんだがなんと、割れ目の横のホクロまでみえるぐらいにまでなっていた。
他のヤツらも、みてる。A美に憧れてた俺にとっては激しい嫉妬と興奮だったよ。若かったしね。
あのホクロのすぐ横には、びらびらがあるんだよ。ちょこっとパンツのすそをめくったら、すぐみえる。
きのせいか、またどんどんパンツが食い込んでいく。
そしてついに。ちょっと向きをかえたときビラビラのはしっこらしきモンが、チラリみえてしまった。
このときの興奮はなかったよ。彼女は全く気づかないみたい。
しばらくその状態のまま、パンツのスソがもう限界(を少し越えた)、
というとこまで割れ目のところまで寄った所で、逆にいる男に声を掛けられ、座ったままくるっと反対をむいてしまった。
180度のターン… パンツは耐えられるか?? それ以上ズレてはみ出さないか?まさか全部出ないだろうな?
結局、休憩がおわるまで、そいつと喋りっぱなしで見えていたかどうかはわからなかったけどその男の視線がやたらと
下にチラチラいっていたんでたぶんすごいことになってたんだとおもう。
A美のその姿をみていたのは男5人ぐらいかな。たぶんみんなボッキンキンだったろう。。。
中学生くらいの頃の女子って、実は性について興味津々で、
特に男子のチ●コのことに興味を持ってるんだよな。
クラスの中で成績が一番だった女子がオレの好みのタイプだったので、
勉強のことで話しかけてちょっと仲良くなってから、
「実はオレ、性のことに興味があるんだ。女性の性器を知りたいんだ。」と言った。
最初彼女はびっくりしてたけど、オレが真剣なまなざしでいたのを確認すると、
「実は私も男性の性器を知りたいの。」とこたえてくれた。
それで、普段は誰も行かない教材準備室という部屋に行き、まずオレのチ●コを見せた。
彼女は顔を真っ赤にしながらも、興味深そうなまなざしで、色々な角度からじっくり見てた。
オレは彼女の手をとってオレのチ●コを握らせた。
それから、オレのチ●コを握っている彼女の手を前後にスライドさせた。
ひんやりした手が妙に気持ち良くて、思いっきり勃起し、少しして射精した。
そのあとで、今度は彼女のパンティを脱がせ、机の上に座らせて両足を開かせた。
彼女のスカートをめくり、オレはしゃがんで彼女のアソコを見た。
それから少しして、オレは彼女のアソコを触ってみた。
彼女は顔を真っ赤にしながら、じっと耐えてた。
オレは「いい?」と聞いた。彼女は「えっ?」と言ったが、オレはそれをOKの意味だと受けとめ、
彼女を机の上で仰向けにさせ、オレのチ●コを彼女のアソコに押しあてた。
彼女は「えっ? えっ? 何?」と言ってたが、オレのチ●コが彼女のアソコに入りはじめると
「あっ、いっ、痛い。やっ、やめて。」と言った。でもオレはそれを無視して腰をグッと突き出した。
はじめてということもあって、オレはあっと言う間に彼女の中で果てた。
中2の夏の夏季講習のあと彼女の家に行った
彼女と勉強してたらHなムードになってきた
俺はベッドに彼女を押し倒しお●ぱいを揉んだ
そしてあんなに憧れていた彼女の太ももをさすった
次に初めて手マンもした、もうネチョネチョだった
彼女の顔は紅潮していて物凄く興奮してるみたいだった
勿論俺も興奮していた脳髄が沸騰しそうだった
恥ずかしがる彼女を横目にパンツを脱がす俺
露わになった人生で初めて見るマ○コ
そのマ●コが放つ猛烈なエロスに俺はどうにかなりそうだった
彼女の太ももを開いてマ○コに口づけした
夏の汗と甘酸っぱいようなものすごく淫らな匂いがした
彼女は「アァン」と淫靡な声を発して俺は興奮した
そのままねっとりと彼女を愛撫した
彼女は最初は恥ずかしそうだったが徐々に気持ちよくなっているみたいだった
そのあと初めてのフ●ラをしてもらった、この時に勢い余って射精してしまったw
そして初めてマ○コに挿入することになった、彼女は「良いよ」と笑って言った
挿入して大人の真似事みたいに腰を振った
二度目の射精までそんなに時間はかからなかった
ああああああっと射精したときにはゆうに3時間は経っていた
お前が自分でチ●ポをしごいてる頃、あの子もチ●ポをしごいてる。
お前がエロビ見て女優がねっとり、あるいは激しくフ●ラしてる頃、あの子もフ●ラしてる。
ひっくり返って気絶したカエルの様な格好でチ●ポをズッポリ受け入れて喘いでる。
寝起きのネコがノビをする様な格好で後ろから激しく突かれて悶えてる。
男の上でまるでロデオでもやっている様に腰をくねらせて上下左右に暴れてる。
お前がだらしなく精液を撒き散らした頃、あの子の腹に、胸に、顔に、膣内に精液が撒き散らされてる。
お前がティッシュで後処理をして一人寂しく眠りにつく頃、あの子は男の腕枕で最高の幸せを感じてる。
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