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西安義行さん失踪事件に関する考察
0001名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/10/30(土) 21:01:06.60ID:OepFskXX
1987年(昭和62年)3月15日、兵庫県市島町(現:丹波市)の自宅から、高校時代の友人である石川靖さんと京都府舞鶴にドライブに出かけ、海を見て食事をして帰り、西安さんは、綾部駅近くで『列車で帰る』といって降車した。
1時間後、西安さんは、「無事着いたか?」と春日町(現:丹波市)の友人(石川さん)宅に電話。
その後の消息が不明。失踪当時42歳。
失踪後、不審な電話や訪問があった。
1.男性の声で「僕、学校の横」という不審電話。
1987年5月、母の久子さん(68)が電話を取ると、小さな声で「僕、学校の横」と聞こえた。
震える声の主は息子と思えた。「義行やろ」。声をかけると、電話は切れた。

2.女児の声で「明かりをつけましょ ぼんぼりに〜」という不審電話。
1993年3月ごろ、女児がたどたどしく「歌うから聞いて」と告げた。
「明かりをつけましょ ぼんぼりに…」
ふと思いつき久子さんは「あんた、義行の子か?」と問うたが、返事はなかった。

3.地下足袋を履いた2人組の訪問。
1998年、地下足袋を履いた2人組が近所の区長宅を訪問し、「西安義行の両親の家はどこか」と尋ねる。
二人は「西安さんが結婚する相手の近所の者」と名乗った。

4.20年後の不審電話
2007年11月、女の子が「圭子さんはおられますか」と電話してきた。留守を告げると、電話は切れた。
0002考察垢版2021/10/31(日) 10:29:12.06ID:py4HOKKq
「僕、学校の横」は実際は、「僕、韓国の横」を「僕、学校の横」と聞き間違えたものだったのでは?
そして、「あかりをつけましょ雪洞(ぼんぼり)に」は拉致であれば今いるところが真っ暗で「地下」に意味しているのでは?
ましてや、「地下」足袋を履いた2人組が訪問しているのでその2人組はもしかすると、地下から来た人、つまり拉致の実行犯かもしれない。
0003名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/11/01(月) 19:44:12.86ID:00+/unpm
>>2
めっちゃ興味深い。
0004名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/12/04(土) 18:06:05.82ID:zib1o/oG
「僕、学校の横」はアナグラムっぽい印象がしてた。
(「僕は」じゃなくて。「僕、」じゃ子供っぽい言い方過ぎる)

すぐそばに監視員が居る中で
電話を掛けてたとしたら
少しわかりにくくしてそうだ。

ただ、ローマ字にして並び替えてみたけど
うまくいかんかったなぁ。

とっさに聞いた内容だから
こまかい事を聞き違えてるってのも
普通にありそうだよなぁ。


ちょっと前に有った人質事件で
人質が「在日朝鮮人です。梵妙はパク・ホットク」って
名乗ったのと同じ方法で。
あれ、パクの発音をボクに直すと
「ぼく、ほっとく」でメッセージになってた。
(日本語が出来る監視員がいたとしても
朝鮮人名までは把握できないから気付きにくい)
うまいけど、危険なやり方だと思った。

人質がな何かメッセージを送るとしたら監禁者が
ちょっと気付かない方法を考えるはず。
0005名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/12/13(月) 18:27:37.67ID:IIstYexD
結局これも北朝鮮絡みか。
0006名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/12/23(木) 20:02:44.14ID:gZuXwZ00
日本海側で失踪って聞くと北の影を感じる。
舞鶴はばっちり日本海だからなぁ・・・。
0009名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/03/08(火) 18:41:43.13ID:elVCExYE
なんで西日本って韓国人多いの?
0010名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/08/10(水) 08:24:08.00ID:5DTRVvQU
某ブログに西安さんの自宅がある地域にある小学校の横に喜多っていう地域があるとか書かれてたな
0011名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/09/15(木) 19:51:24.24ID:tKsgH5RJ
北朝鮮怖い怖い
0013名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/10/12(水) 06:57:30.83ID:???
42歳のオジサンを北が拉致したのか?
可能性は低いと思う
行方不明事件では電話の大半が無関係な者からのイタズラと言われているので、話半分で
0015名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/15(日) 15:26:56.80ID:jaOfSexq
政治家や将軍たちの演説もその大きな特徴のひとつである。

トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争がギリシア世界を揺るがす大戦に発展すると考え、その記録を残す事によって後世の人々が似たような事態に直面したときに、この記録(故に戦史と称された)を教訓としてうまく活かせるようとの意図で執筆したと、序言で述べている。またアテナイで発生した疫病の状況や、負傷した兵士が知人の顔を認識できなくなる症状(相貌失認)など関連する事象も多数記録されている。

『戦史』はペロポネソス戦争の全史を記述するはずであったが、紀元前411年の記録を以って突然中断し未完となった。なお、執筆年代について一気に書いた説と少しずつ書き溜めた説とがあり、さらにトゥキュディデスは紀元前395年に没したことから、中断を直接に結びつける説は現在の研究では支持されていない
0016名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/09(金) 19:45:17.55ID:7Tq54gXo
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