「次週いよいよ、『男一匹ガキ大将』第二部堂々再開!!」

『DRAGON BALL』の衝撃
 1978(昭和53)年、その本宮ひろ志を発掘した西村繁男が第3代編集長に就任すると、いよいよ「ジャンプ」の勢いは増していく。

 1979年に『キン肉マン』(ゆでたまご)、1980年に『Drスランプ』(鳥山明)や『3年奇面組』(新沢基栄)、1981年に『キャプテン翼』(高橋陽一)、『キャッツ・アイ』(北条司)、『ストップ!!ひばりくん!』(江口寿史)といったヒット作が次々と始まり、発行部数は雑誌史上初となる300万部を突破する。

 80年代前半には“ラブコメのサンデー”が部数を伸ばしたが、それにしても「ジャンプ」とは100万部の差があった。1985(昭和60)年に『ふたり鷹』(新谷かおる)、1986年に『タッチ』、1987年に『うる星やつら』、と人気作品の連載終了が重なると「サンデー」の部数は減り始め、再び「マガジン」に逆転を許してしまう。

 しかし発行部数200万部の手前で「マガジン」と「サンデー」が2位争いをしていたとき、そのはるか上空には「ジャンプ」がいたのだ。

 前に触れたように、「サンデー」がラブコメで伸びているとき、「ジャンプ」のスタッフはかなり危機感を持っていたらしい。挙がってくる企画もラブコメばかりになったが、西村自身はラブコメに否定的だった。

「というのも、2匹目のドジョウが1匹目を追い越すことはできないんですよ。当時、『キックオフ』(ちば拓)という作品を載せましたが、あれはラブコメというよりもそのパロディでしょう。その後『北斗の拳』(武論尊・原哲夫)が出た。それで一気にサンデーを引き離しました」

作家の寿命を延ばすか、作品の寿命を延ばすか
 1983(昭和58)年に『北斗の拳』、翌1984年に世界的なヒット作となる『DRAGON BALL』(鳥山明)が始まると、ついに400万部を達成する。

「最終的にジャンプは600万部を超えますが、内容のピークは80年代半ばだったと思います。これはどうにも歯が立たなかった」と、当時は「マガジン」の前編集長になっていた宮原照夫は振り返る。

「僕の方法論は編集者・原作者・マンガ家が三位一体で作っていくこと。ところがジャンプは、マンガ家個人の力がとても大きかった。新人の強さとは、今までにない新しい感性ですよ。絵があるマンガの場合、それが小説以上に出てくる。こればかりは編集者が作ろうとしても作れないんです」

 もちろん、編集部の力も無視できないだろう。「ジャンプ」に集まった新しい才能を磨き、開花させたのは編集者たちに他ならない。「マシリト」こと後に「ジャンプ」第6代編集長になる鳥嶋和彦は新人の鳥山明に目をつけ、『Drスランプ』開始まで2年ほど「ボツの嵐」を出し続けて鍛え上げたというのは有名な話だ。

 人気のある作品は終わらせない「ジャンプ」だが、ときには例外もある。西村によると、『Drスランプ』は最後まで人気が落ちなかったという。

「人気が落ちる前に担当の鳥嶋くんが終わらせて『DRAGON BALL』につなげています。作家の寿命を延ばすか、作品の寿命を延ばすか。そこで鳥嶋くんは『Drスランプ』を終わらせるという判断をしたわけです。編集長だった僕はもったいないなと思ったけど、当時は『キン肉マン』『キャプテン翼』『北斗の拳』など、強い作品がたくさんそろっていたからね。
大丈夫だろうと思いました」

「マンガは新人でもベテランと戦えるメディアなんですよ」7つのペンネームを使い分ける「超一流マンガ原作者」の正体 へ続く

(伊藤 和弘)