「○○先生の作品が読めるのはジャンプだけ!」で知られる「マンガ家専属制度」も本宮ひろ志が最初だった。

「自分たちが苦労して育てたマンガ家を持っていかれるのはかなわない、ということで長野(初代編集長)さんが発案したんです。さらに読者に対して“ジャンプでしか読めない”希少価値を売りにする、ということですね。建前の理由としては、1本に集中することでいい作品を描いてもらおうと。
本宮さんは最初年間24万円だったけど、そのうちプロ野球選手の契約料くらいにはなりましたよ」

 半世紀前の話だが、それにしても当時の24万円は現代の貨幣価値に換算しても100万円に届かないのではないか。恐ろしいことに初期の頃は「他誌で描かない」と約束させておきながら、必ず作品を載せる保証がなかったという。それはさすがに問題があるということで、2代目の中野祐介編集長の時代に、年間ではなく「執筆中は他で描かない」という契約制度に代わった。

「もっとも連載が終わっても、人気がある作家はすぐに次の連載を決めて更改していくから、結果的には毎年更新していくようなものですけどね」

 しかし、そもそもフリーランスであるマンガ家を他誌で描かせないという契約はおかしい――。そう考える編集者やマンガ家も昔から多かった。

「あえて反論はしない。それはジャンプの方針ですから。中には専属制が合わなくて離れていったマンガ家もいます。外に出て成功した人もたくさんいる。小林よしのりさんなんかそうでしょう。『東大一直線』はそれなりにヒットしたけど、外に行ってから描いた『おぼっちゃまくん』の方が力を発揮したと思う。
永井豪さんも週刊からは離れたけど、『月刊少年ジャンプ』で長く仕事をしてくれました」

ジャンプの伝統「アンケート至上主義」
「友情・努力・勝利」のキーワードとともに、「ジャンプ」といえば読者の反応を徹底的に重視する「アンケート至上主義」もよく知られる。これも初代編集長・長野規から連綿と受け継がれた“ジャンプの伝統”なのだという。

「創刊号からアンケートハガキをとじ込みで入れてあるんです。1冊にとじ込みハガキを入れると経費が1円余分にかかるんですよ。200万部なら200万円。長野さんはそれをかたくなにつらぬいた。要するに、読者が読みたいマンガを載せるんだと。もうひとつは、マンガ家と編集者に対する競争原理の導入ですよ。
なるべく多くの読者がアンケートに答えるように創刊号から懸賞アンケートにして賞品が当たるようにしています。10週やって人気が出ないものは切る、というのもかなり早い段階から決まっていました」

 人気のない作品は10週で打ち切る半面、人気があれば簡単には終わらせないのもアンケート至上主義の特徴だろう。

 例えば、本宮ひろ志の出世作『男一匹ガキ大将』には、何回か“幻の最終回”がある。

 最初は不良学生の全国制覇をかけた「富士のすそ野」編のクライマックス。敵対する堀田石松が放った竹槍が主人公・戸川万吉の腹に深々と突き刺さる。生原稿ではそこにマジックで荒々しく「完」という文字も書かれていたという。

「担当だった僕がその『完』の字をホワイトで消して無理やり続けさせた。それは事実です。『ガキ大将』の人気は絶大で、ついに『ハレンチ学園』を抜いてトップに立っていた。ここからいかようにもできる展開だし、まだまだ続けられると思いました。まあ、『ハレンチ』のピークも過ぎていて、ここで『ガキ大将』に抜けられたらまずい、という気持ちもありましたけどね……」

 その後、万吉は一命を取り留め、全国の不良学生の頂点に立つことに。「わいのガクラン(学生服)もってこい!」という台詞で大団円を迎え、全7巻の集英社文庫版はここで完結している。

 本宮の自伝『天然まんが家』(集英社文庫)によると、その最終回から数週間後に長野編集長がやって来て「続編を描いてくれ」と頭を下げた。「もう無理です」と固辞する本宮に対して、長野は涙まで流しながら熱く訴えたという。

「本当のガキ大将の戦いは、これからじゃないか。がんばろう、ふたりでがんばろう。『少年マガジン』のシッポをつかんでいるんだ!」

 ときに1971(昭和46)年、「ジャンプ」の部数は急伸していたが、まだ「マガジン」には追いついていなかった。

 やむをえず「考えてみます――」と答えた本宮は、長野が置いていった最新号の「ジャンプ」を見て「あっ、あのジジイーッ!」と絶叫する。見開きを使って、でかでかとこう書かれていたのだ。