蒸気機関車の歴史3
この人 ↓ 今どうしてますかね?
895 :名無しでGO!:02/01/13 00:46 ID:lNBqN4gl
単位系の話ですが、やはりISO系の単位を使用するのが、変な係数が出ないので
計算が非常に楽です。誰かが作った式に、数値を代入するだけなら、単位系は慣れ
の問題でしょうが、式をいじったりするときはMKS単位系が楽ですよ。
100Kp → 1kg/cm^2
3.6km/h → 1m/sec
くらいは頭に入れておきたいですね。あと10年もすれば、自動車や鉄道車両の
走行速度も、km/hからm/secに変わるはずです。古い単位系への郷愁も嫌いでは
ありませんが、技術が進歩から取り残される前に単位系も移行しましょうね。
(大藁) 戦前英独でスピード競争しましたが、スピン
オフを含めて技術的に得たものはあったん
でしょうか。 戦前英独でスピード競争しましたが、スピン
オフを含めて技術的に得たものはあったん
でしょうか。 >>20-21
英 ダブルプラストパイプの普及
独 3気筒急客機の普及 01-10, 03-10など
かなぁ 一文惜しみや武士道は設計課長さんのことを
どう思ってたんでしょうか。使える奴だけど
自分たちより良い仕事をする、メリケンカブレ
と機脈を通じている、鬱陶しい奴だ、使い
潰してしまえ、とか。
戦後になって設計課長さんにも春が来て。 設計課長さんもどちらか言うとメリケンびいきでしたからね
のちの技師長に燃焼室推奨(知恵付け)したのも設計課長さんかと
あと戦時型D51のフレームを独52みたく板台枠にしようと図面描いてるのを武士道専務に見とがめられ
製造課長兼務で現場に行かされちゃいましたね 武士道と言えば博士論文に使ったPRRのテストブレティンを数点入手し確認したトコロ
元データを我田引水して「A倉式」を創出したことが判明しました C62の優秀さはD52由来の缶の優秀さに依るもの
で、ということですが、C59の走り装置の何が
良くないのでしょうか?8900の優秀な走り装置
を漫然と踏襲したのがダメですか。缶も太くな
り速度も高くなったんだからそれなりの対応を
しろとか。 熱効率の向上を図って缶圧を逐次上げてきたのに弁装置が旧態依然の短ラップ短トラベルで
締切を詰めて連続高速運転するのに適した長ラップ長トラベルにしなかったのが一番ダメなトコロです なので締切を詰めて連続高速運転するとクランクピンが帯熱するため
加減弁絞って給気圧下げて締切伸ばして運転するなんてコトになります クラウスとマッファイとの合併て、雨宮と日立みたいなもの? 昭和30年代、関西の某区にはS裾の9600、浅Sの8620、深乙の8620がいた。時期的には必ずしも重なっていない。ヲタ的にはいいものみられて嬉しいけど、現場としては初期ロット押し付けられて嫌だろうな。第一次大戦終結後なら、
設計的にも改良が積み重なっているし、不況期なので資材も十分にあるし、急かされないから
工作も丁寧だろうし。
そこはC10も押し付けられた。これはC10よりましか。 同じ頃関西の某工場は丸を角に直すのが好きでC57C59の煙室や86のキャブ裾を角にしちまった 昔ドナルド・キーンだったか誰だったか忘れたけど、日本人は巨大なエネルギーを感じさせる
ものを造るのは苦手だ、と言っていた。容貌魁偉もそれなりにまとまっているしね。
ボールドウィンにD52造らせたらどうなるだろう。 C54の歩み板は直線でもよかったのでは?
C51を引きずっているんですか、18900も最初
は直線だったし。まぁ、不協和音的なスタイル
が魅力なんですが。 逆にあの低い缶中心高でC55C57みたく高め一直線だとボイラーが下にめり込んでる感じがします>< 田圃が関西に天下りして一文惜しみと出会った
のが不幸の始まり。田圃の後ろにいる大風呂敷
蛮爵の威光をかさにしたい放題。
田圃の孫も何をした。 菅村書店
◆2020年11月13日に中野富士見町へ移転しました。20年間に渡り神保町店をご愛顧いただき、
心より御礼申し上げます。
店舗営業をやめ、事務所営業となりました。商品のお求めは通販のみの対応となります。
何卒よろしくお願い申し上げます。
wwwww ポーランドとの国境近くにある、古くて忘れられた駅に、第二次世界大戦を生き延びたライヒスバーンの機関車の残骸が錆びついている。中には機関車庫の中で驚くべき状態で生き残っているものもあれば、風雨にさらされているものもある。
蒸気機関車のほとんどは、いわゆるBaureihe 52と50(いわゆるKriegslokomotiven)に属するもので、戦時中にヨーロッパのいくつかの工場で標準的な生産工程で大量に作られたからである。7000両以上が製造され、1980年代まで使用された。
www.youtube.com/watch?v=UdxmbG5PMVQ ボールドウィンの工場
www.catskillarchive.com/rrextra/blw01.Html いまイギリスSevern Valley Railwayにメイフラワー号が初入線してテストドライブ中
6ヶ所にあるYouTubeのライブカメラで機回ししてる所なんかが見られる
いまブリッジノース駅に停車中 ツールエンジニア 2018年新春特別1月号
蒸気機関車 C53に見る国産化技術の歴史的展開
[1] 蒸気機関車における機関要部の鋳造技術
[2] C53 における主動輪の釣合法
[3] 蒸気機関車における駆動力の伝達ならびに支持機構
[4] クランク車軸の設計……製造法と素材
[5] 戦後における蒸気機関車の開発
[6] 車両限界と3 気筒機関車……日本における蒸気機関車開発 イギリスなんかの蒸気機関車の胴体?は日本のみたいにパイプとかが無くて手すりが付いてるだけのツルツルだけど、あれはどっか別んとこを這わしてんの? ボイラーと外板の間に配管を入れているそうので見た目はスマートだけど整備性が悪い。 >>51
今見てるけど動輪が3つ付いてるだけの入れ換え用みたいな小型タンク型が、フルサイズの木造客車8両引っ張って本線を普通に走ってんのが凄いな
今日はSL✕4?にDL1でクリスマス列車大盛況だ 明日までSVRでスプリング・スチーム・ガラやってるよ
ユーチューブチャンネルでライブカメラ6台動いてる
キダーミンスターにお客さん集まってきた BR 01 173
ヘンシェルは1936年に機関車01 173を製造番号22721でゲッティンゲンP機関区デポに納入した。
ゲッティンゲン01は、南北ルートのほか、西回り、東回りのルートも走り、ベルリンとオスナブリュックで折り返した。
ベルリンとオスナブリュック。01 173は終戦時に駐車され、中断されそのBw所属は不明である。
1948年になってから再調整され、ハーゲン・エッケゼーを経由してケルンBbfに到着しました。
オスナブリュックへの短期貸し出しを挟み、約20年間ここに留まりましたが、1964年以降はドイトザーフェルトの車両基地で使用されています。
ケルン01はライン川に沿ってルートヴィッヒスハーフェン、マンハイムからアルンハイム、ハムへ、またカッセル、オスナブリュックへと走りました。
1967年、この機関車は01年最後の拠点であったホーフに移されました。
1973年にUlmer Eisenbahn Freunde e.V.(UEF)の目に留まり、より大きなクラブ用蒸気機関車を探していた彼らは01をすべて試運転しました。
1975年まで、この機関車は多くの特別列車を走らせたものの、ボイラーに大きな損傷を受け、01 1066と交換することになった。
その後、10 001との交換を経て、Freunde und Förderer des Deutschen Technikmuseums Berlin e.V. (ベルリン・ドイツ技術博物館の友人とスポンサー)が所有することになった。
現在、UEF Historischer Dampfschnellzug e.V.との協力のもと、博物館的な観点で01 173の運用改修に取り組んでいます。
現在のプロジェクトの状況は、www.01-173.de で確認することができます。
01 032
01 032は、1927年にカッセルのヘンシェルからHamm機関区に製造番号20835で納入されました。
Hamm機関区には長年01が在籍し、特にアーヘン-ハノーファー軸の重急行便で走りました。
戦後はゲッティンゲンを経由してブラウンシュヴァイクにやってきて、1958年までハム方面などを再び走った。
新しい東の国境は、列車の乗務員区間の多くにも変化をもたらしました。
1958年以降、ブラウンシュヴァイクの車両基地には十分なBR 03と01 032がハノーファーから再び東西軸、そして南北軸でベブラとハンブルクまで3年間走った。
その後、最後の年をプファルツで過ごし、ルートヴィヒスハーフェンやカイザースラウテルンで活躍し、1964年7月1日に廃車された。
解体は64.09.30までAW Trierで行われた。
01形が「ドイツの特急用機関車」という評価を得る前に、ボルシグ社(01 001-008)とAEG社(01 009-010)は、合計10両の先行量産機関車をドイツ帝国鉄道(DRG)に納入しています。
その最初のものが現在も存在する01 008で、1926年1月10日にDRGに引き渡された。
しかし、機関車は時代の先端を行くもので当時はまだ多くの路線や車両基地が軸重20tに対応できていなかったため、
運行開始当初は、まだ運行路線が非常に限られていた。そのため、新型機関車のテストは長引いた。
最初の10両の01と後期型との最も顕著な違いは運転台が目に見えて長くなっていることである。
また、台枠の設計など、細部にも違いがあった。
1936/37年、Rbd Kölnに01 192 - 198がライン交通用に割り当てられ、01 193は36年12月21日に受け入れられ、Deutzerfeld機関区に割り当てられました。
また、この機関車は伝説の「ラインゴルト・エクスプレス」にも割り当てられ、18.5級から引き継がれることになった。
1930年以降、オッフェンブルク車庫では01と共にライン川上流をバーゼルまで運んでいます。
ケルンでは、01 193も戦争を生き残り、1948年にハムに到着します。ここで1959年まで多数の姉妹機関車とともにアーヘン-ハノーファーの東西軸を走り、その後パーダーボルンに移されます。
1960年、ニエドで高性能ボイラーを新調する。パダーボルンからカッセル、北はブレーメン、エムデン、オルデンブルクを回るため、わずか5年後の1964年にライン社に転属となった。
オランダへの乗り入れのため、ライン01はテンダー2'2T30を搭載することが多い。01.10の割り当てが増えることで01は余剰となり、001 193-2はすでに68.06.21に撤退している。
Gustav Ahrens GmbHは1969年9月と10月にEssen-Rellinghausenで解体しています。
blog.modellbahnshop-lippe.com/en/2022/06/15/produktvorstellung-brawa-baureihe-01/ 線路上で貨物列車が立ち往生→偶然近くにいた蒸気機関車が駆けつける 2023年とは思えない救出劇に海外の鉄オタたちが沸く
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/2307/15/news072.html
居たのが史上最強クラス出力の蒸気機関車でワラタ