ミャンマーの鉄道 [無断転載禁止]©2ch.net
ミャンマーの鉄道ならなんでもOKです。
情報が少ないかもですが完走目指しましょう 村には子どもたちが通う学校や、粗末な木のベッドを土間に並べただけの診療所の小屋もある。看板には「病院」
と書かれているが、ミャンマーのほかの少数民族武装勢力の支配地域と同じく、医師はいない。医療環境の貧しさは、
すべての少数民族勢力が抱える最大の悩みだ。この村には6年前も訪れた。そのときは蒸し暑い施設内に5人の看護師が
働き、4人が入院していた。住民の診察代は無料だ。
「この道は泰緬鉄道が通っていた跡だ。カンチャナブリはあっちの方だよ」――。最初の訪問時に村の関係者から
不意にそう言われたが、線路の跡など見当たらなかった。今回村を再訪した際、土にめり込んでいるラワンのような
木片を、彼らが指で示してくれた。「枕木の残骸だ」という。注意深く足元を見ると、小道の所々に木片が埋まっていた。
樹林の中に延々と続く盛土
脇の茂みを数十メートル入ると、木々の間に日本軍が掘った井戸と貯水施設があった。井戸は円筒形のコンクリート製で、
厚い蓋で閉じられている。貯水施設は約3m四方の大きさで、内側に水が溜まっていた。小道の反対側には、大きな岩を
くり抜いた穴が草地にぽっかり開いている。建設当時、線路に敷く砂利を採った跡だった。
小道の数キロメートル先にはゴムの森がある。その樹林の中に、雑草に覆われた高さ1m、幅2mほどの盛土(築堤)が
100m以上続いていた。真っすぐ約5q先がスリーパゴダパスだ。この山奥に鉄道が敷かれていた事実を、ようやく確信した。
当時、スリーパゴダパス一帯で泰緬鉄道の建設に従事したビルマ人作家リンヨン・ティッルウィン氏は、こう記している。
「捕虜たちはジャングルで切り倒した木材を運び出し、パヤトンズ駅の建設に取りかかった。象、象使いたちも厳しく
働かされていた」「労務者たちはダイナマイトで爆破した岩石を線路に敷くために砕く作業に従事した」(『死の鉄路』
毎日新聞社)――。以前にニホン・イド村で取材した70代の男性は、「ここには日本軍が駐屯していた。モン族といい関係
だったが、戦争末期は乱暴になったそうだ」と話した。
ニホン・イド村とミャンマー政府が管轄するパヤトンズは、原野をはさんで向き合っている。NMSPと国軍は一帯で戦闘を交わし、
特に90年代が激戦だった。2年前に停戦合意したが、昨年末に村で国軍と衝突が起き、大勢の住民がタイ側へ避難した。停戦後も、
緊張はまだ解けていない。 泰緬鉄道の駅はタイ側に36カ所、ビルマ側に19カ所設けられ、空襲を避けるため大半は兵站や作業キャンプ周辺の
森の中に置かれた。駅舎は竹や木を組んだ簡素な小屋で、すでに朽ちたり解体されたりして残っていないだろう。
日本軍は終戦間際に泰緬鉄道の文書類を焼却しており、正確な線路や駅の位置は不明だ。ただ、パヤトンズから
タンビュザヤ方面に1本の道路が通っている。住民によると、この道はパヤトンズ周辺では線路が敷かれていた上を、
ほかの区間は線路にほぼ沿って走っているという。昔は馬でしか通れないような劣悪な道だったが、2011年に軍政
から民政移管に伴って発足したテイン・セイン政権が整備を進めた。だが、大部分は未舗装で穴だらけの硬い
デコボコ道で、対向車が来たらすれ違えない区間もある。大半は徐行でしか走れず、工事自体も中断か放棄されて
いる様子だった。
水中に横たわる鉄製の桁の残骸
道沿いには、パヤトンズからタンビュザヤにかけて「チョンドー」「アパロン」「メザリ」「タンズン」「タンバヤ」
「アナンクイン」「ラバオ」「ウエガレエ」など、日本軍が付けた駅名と同じか、似た名称の集落が点在している。
このうちアパロンはパヤトンズから約20q西にあり、一帯はNMSPの影響圏だ。多くのモン族はタイへ出稼ぎに出ており、
アパロンやニホン・イド村で流通している通貨はタイのバーツだ。小さな食堂でもミャンマー通貨のチャットは使えない。
少数民族武装勢力の支配地域は、政府から独立した経済圏が形成されている証左の1つだ。
集落の近くにザミ川が流れている。原動機付きの細長い木製ボートで蛇行に沿って5分ほど下ると、川の中央に突き出た
巨大なコンクリート製の柱が目に飛び込んできた。それは泰緬鉄道の橋脚だった。高さは水面から約5mもあり、かなり
頑丈な構造だ。列車が走っていた桁の部分はなぜかなかった。両岸には、黒ずんだ大きな台形型の橋台が2基ずつ、
どっしりと据えられていた。
NMSP幹部によると、この一帯はカレン族武装勢力のカレン民族同盟(KNU)と国軍が、90年代を中心に激しい戦闘を
繰り広げた。その際、「KNUは国軍の進行を妨害するため、90年半ばにこの橋を爆破した」という。下流側の水中に、
そのときに吹き飛ばされた鉄製の桁の残骸が横たわっていた。
80年近く遡れば、周辺の森には機関庫、停車場司令、電話交換所、無線通信所、工作隊などを配した大型の鉄道基地が
設けられ、武器の補給と修理も行われた(『C56南方戦場を行く』岩井健、時事通信社)。大戦に耐え残ったザミ川の
橋脚は、約半世紀後にミャンマーの内戦で爆破されるという数奇な道をたどった。川に置き去りにされたその姿は、
戦争の無常を孤独に背負い続けているようだった。 アパロンの約35q西には、モン族やカレン族が暮らすアナンクインという集落がある。大戦中はアパロンと
並ぶ大規模な軍用駅が置かれていた。
民家と食堂が並ぶ道路脇の集落から草地を10分ほど歩くと、昼間も薄暗い森に着く。中に入ってすぐ、
てっぺんに小さなストゥーパ(仏塔)が据えられた高さ2m以上の橋脚が鎮座していた。これも泰緬鉄道の遺構だ。
道案内してくれた30代のカレン族の女性は、「この辺りは、大戦中は川だった。戦争が終わったあとに流れが
よそへ移っていった」と話した。近くに大きな川がある。当時はその川か支流がここを流れ、日本軍は橋を建設した――。
密林に大きな橋脚が建っているのは、そうした理由からだろう。
では、橋脚の頂部にストゥーパが置かれているのはなぜか――。「ある僧侶が35年ほど前、この構造物を壊さないように、
と村人に据えさせた」と教えてくれた。平和の祈願だったのか、僧侶の意図は今ではわからない。ただ、その頃は
アナンクイン一帯も内戦の大混乱に巻き込まれていた。KNUとNMSPは国軍と激しく交戦し、この女性も子どもの頃、
銃声が響く中を親と逃げ回った。学校に通えなかったことが、今でも無念だと語った。
メイサンチーさんという90代になるモン族の女性は、この地で80年近く前、日本の兵隊向けに小さな食堂を姉妹で営んでいた。
今はタンビュザヤ近郊の村に住む。「姉がモーラミャインまで買い出しに行き、日本兵に菓子やたばこを売り歩いた。
アナンクインにはかなりの数の日本兵が駐屯していた」という。英軍の空襲にも遭遇したが、無事だった。「あの頃は暮らしに
余裕ができて、いい思い出です」と語った。
日本軍の温泉が残るウエガレエ
泰緬鉄道は、山の間を平野へと続く緩やかな丘陵に沿って敷かれた。今回パヤトンズから下ってきた道も、勾配はほとんど
感じなかった。平野に下りるとウエガレエという集落がある。そこの国軍施設の敷地内に、大戦中は駅が置かれていた。
ウエガレエには3年前、温泉レジャー施設が開業し、園内はプール、レストラン、ヤシの木々などがリゾートの雰囲気を演出している。
施設のマネジャーの中年男性によると、ここで湧いている温泉は日本軍が泰緬鉄道の建設時に掘ったものだ。行政側が示した開発の
条件は、当時の施設を保存することだった。 園内には、日本軍が作ったコンクリート製の老朽化した槽があり、底から湯が沸き出ている。近くの高級軍人用の
建屋には、湯船と洗い場を備えたコンクリートの6畳ほどの個室が4部屋並んでいた。施設の来場客が使う浴場の隅にも、
兵士が湯を浴びていたとみられる樋が残され、溝を湯が流れていた。こうした日本軍の施設は、以前は子どもたちの
遊び場だった。
この近くに日本軍の野戦病院があったという。マネジャーの90代になる祖父は若い頃、野戦病院で死亡した日本兵の
埋葬を手伝っていた。「埋葬地はこの隣の森だった。そこを掘れば、かなりの数の遺骨が必ず見つかる」と、男性は断言した。
鎮魂の地、タンビュザヤ
ウエガレエから車で20分も走ると、泰緬鉄道のビルマ側の起点であり、タイからは終点だったタンビュザヤに着く。大戦中、
線路はここでモーラミャインから延びる幹線鉄道と接続され、タイから到着した機関車はそのままモーラミャイン方面へ
軍事物資を運んだ。
今、タンビュザヤは鎮魂の地だ。建設当時、所々に設けられた作業キャンプでは、栄養不足と不衛生な環境下でコレラや
赤痢が蔓延し、タイとビルマの全工区の犠牲者数は「日本兵1000人、捕虜1万3000人、アジア人労働者3万3000人」
(『泰緬鉄道 戦場に残る橋』広池俊雄、読売新聞社)との推定から、「ビルマ人労働者だけで8万人にのぼった」
との見方まで錯綜している。当時から正確な記録がなく、アジア系労働者の実態は特に把握できていない。
戦後に英国などが整備した広大な連合軍墓地には、英国、豪州、オランダ、アメリカなどの兵士約3800人が眠る。芝に並ぶ
小さな墓碑の一つずつに名前が刻まれ、その多くは20代だ。
町には4年前、泰緬鉄道の博物館も開館した。軍政時代は同じ所に、実際に使われていた機関車「C56」が草むらに無造作に
置かれていた。今は黒の塗装で化粧直しされ、先端部には障害物除けのスカートが装着されている。
博物館の裏手にはモーラミャイン方面からの線路が通っており、脇に「死の鉄道の起点」の碑が立つ。これも新品に取り換え
られていた。
ここから南へ約1q。国道から少し入った草地に、日本軍が1944(昭和19)年2月に建てた工事犠牲者の慰霊碑とパゴダが
佇んでいる。奥の雑木林には、泰緬鉄道の築堤が草に覆われて土に還ろうとしていた。 当時、泰緬鉄道はどれだけ機能したのだろうか。「泰緬鉄道 機密文書が明かすアジア太平洋戦争」
(吉川利治著、雄山閣)によると、「昭和19年6月ごろまでの運行は順調」で、野戦砲、弾薬、ガソリン、馬などが
運ばれた。ただ、単線のため輸送量は限られ、雨季は土砂崩れや橋梁流出、脱線事故が頻発した。さらに空襲を
避けて運行は夜間だけになり、物流面の効果は不十分だった。
だが、泰緬鉄道のルート自体は、両国間の物流経路では最適な設定だった。日本軍は8つのルート案を定め、地形などを
勘案してスリーパゴダパス経由を選択した。図らずも、英国も泰緬鉄道とほぼ同じルートの鉄道建設を検討していた
(広川氏著書など)。タイとビルマの古来の紛争もスリーパゴダパスから攻め込む事例が多く、ルートの優位性は歴史も
証明している。
ならば21世紀の今日、日本が積極的に協力して、このルートを平和と繁栄を運ぶ道に再生できないだろうか。鉄道の
再整備には、タイ側も含めて時間と予算がかかる。代わりにタンビュザヤ−パヤトンズに大型トラックが通行できる
高規格道路を建設し、スリーパゴダパスでタイの幹線道路と接続する方法が効率的だろう。
タイとカンボジア、ベトナム、ラオスの間には、すでに国際幹線道路が通っている。これをミャンマーにつなげば、
南シナ海側とインド洋側を貫くインドシナ半島の陸の大動脈が出現する。国際的には知られていないが、モーラミャイン
から内陸部のKNUの影響地域を通ってパヤトンズまでは、高規格道路に改良が可能な道路が存在しており、これを
整備するのも一案だ。
日本企業のサプライチェーンの強化に
これらのルート整備の効果は多岐に広がる。ミャンマーは直接的な経済効果に加え、停戦合意しているモン族、カレン族の
勢力地域が経済特区整備などを通じて発展に動き出せば、他の武装勢力と政府の停戦交渉にもプラスとなる。このルートが
「和平の果実」の象徴となり、アウンサンスーチー政権が悲願とする国内和平の実現に弾みがつくことが期待される。
ベトナムからタイを通ってミャンマーに至る幹線道路は現在、スリーパゴダパスの北約150qで開発中の「東西経済回廊」
しかないうえ、沿線全体の人口と産業集積が乏しく、経済効果は薄い。これに対して、日系企業も多数集積するバンコク周辺と
最大都市ヤンゴンを最短で結ぶ泰緬鉄道ルートは、貿易・投資の拡大効果で東南アジア諸国連合(ASEAN)各国の成長を促し、
日本企業のサプライチェーン(供給網)の強化にも寄与するのは間違いない。
ヤンゴン近郊のティラワ経済特区では2021年2月、トヨタ自動車が現地生産を開始する。将来的に域内の物流需要の増加は
確実であり、今からルート整備に着手するべきだ。すべてが「ウィンウィン」のこの経済協力は、日本政府にとっても、
ミャンマーをはじめASEAN各国に急接近する中国の一帯一路への牽制にもなる。
何よりも戦後75年を経て、かつての「死の鉄道」を、平和と繁栄の未来につながるルートに生まれ変わらせることができたら、
すべての犠牲者の鎮魂にもなるであろう。 瑶子さま、日本人墓地訪問=ラングーン 2019/12/13(金)
https://nna.jp/news/show/1986021
【ラングーン共同】ビルマ訪問中の故寛仁親王の次女瑶子さまは12日、首都ラングーンの日本人墓地を訪問され、
献花した。第2次大戦中、ビルマでは多くの日本兵が戦没しており、墓地には亡くなった日本人らが埋葬され スー・チー国家顧問が三笠宮家の瑶子さまと懇談 R元.12.25
https://myanmarjapon.com/newsdigest/2019/12/25-20143.php
ミャンマー外務省のアウン・コー総局長によると、懇談では瑶子さまがバガンやヤンゴンの歴史的に
有名なスポットを視察されたことの感想や日本と文化や習慣が似ていることなどが話題に上ったという。 နိုင်ငံတော်
အတိုင်ပင်ခံပုဂ္ဂိုလ်နဲ့
ဂျပန်ဧကရာဇ်ရဲ့
ညီမတော်
တော်ဝင်မင်းသမီးတို့
တွေ့ဆုံ
https://mcntv.biz/news/local-news/16/12/2019/141765/
တူညီတဲ့ ယဉ်ကျေးမှု၊
ဓလေ့ထုံးတမ်းတွေ၊
မြန်မာနိုင်ငံနဲ့
ဂျပန်နိုင်ငံအကြား
ချစ်ကြည်ရင်းနှီးမှု
တိုးမြှင့်ရေး
ကိစ္စရပ်တွေနဲ့
ပတ်သက်ပြီး
ရင်းနှီးပွင့်လင်းစွာ
ဆွေးနွေးခဲ့ကြကြ https://i.imgur.com/VLZTtKS.jpg
スーチー国家顧問と瑤子女王の通訳の女性はサーヤさんに似てるよね。 2月にヤンゴン初訪問したら環状線運休しててビビった
LBTX900を見たかったんだがほぼ完全に3扉通勤客車に置き換えられてて車庫でサビまみれになってる一両しか見られなかった
ヤンゴン-バガンでは英式個室寝台に、バガン-マンダレーでは片側通路式の寝台に乗ったがいずれも食堂車はなし
どの列車なら食堂車がついているのかが気になる
マンダレーのマダヤ線は代用客車がSMBDT45000の一両だけで他は一般客車だった 食堂車連結は完全にランダム。
アッパークラスや寝台に、白服のボーイが食事のオーダーを聞きに来れば、
食堂車はついている。 >>205
なんとランダムなんですね
またヤンゴン-マンダレーやマンダレー-ミッチーナーで挑戦してみようと思います しかし新型コロナがこんな状態だと、もうノービザでミャンマー行きは不可か? ティラワ港に到着した中古液体変速機式気動車21両は
長らく名港放置プレイにされていたJRC車かな?
https://www.nna.jp/news/show/2043293 3月の改正で引退した東のキハ40/47では?
3月下旬〜4月上旬に新潟港へ輸送されたはず。 【JR四】2000系3両(2112+2210+2002)が廃車のため多度津工場へ
https://2nd-train.net/topics/article/28500/
ATS改造とワンマン改造でミャンマーへ輸出すべき。 【JR四】2000系2215解体中
https://2nd-train.net/topics/article/28964/
ミャンマーに輸出したかったのに、改造・譲渡してでも使える車両を解体したJR四国は許せない。 初めから丸紅VJ入札分は24両だけだったと思ったが。
それに新潟トランシスが電気式気動車は初めてとか書いてるが、もっと高度な
電気気動車であるHB-E300も製造しているし、ミャンマーに輸出された台車も
HB-E300もほの同じっぽいしなあ。
何見て、このバカ記者は書いてるんだろう? まあ高木だしなあ
毎回思うけどアジアン鉄道ライターって肩書きがじわじわくる 東洋経済(笑)
ってテンケー的な日本下げ中国上げ企業じゃんw シナチョン寄りの反日メディアなんだよなあ
高木も在日か? 日本sageとか在日認定とかネトウヨくんが顔真っ赤ってことは
信頼できる記事なんだろうな 信頼記事もなにも↓の丸パク。ここの管理人がHB-E300の存在に気付かず新潟トランシスが電気式気動車を
製造するのは初と書いて、嬉々として丸パク。
http://www.2427junction.com/mmrreportnt.html ミャンマー向けJICA案件の2次車はCAFが落札したし
GV-E400系2連3連とH100形単行など派生タイプの
ノックダウン生産のビルマ語マニュアル付きで
車両単価3億円弱とか概算見積もりが滅茶苦茶だよ。
電気式気動車なのに100km/h車とか国際価格競争力
なんて皆無だろ。 1000o軌の動台車と組み合わされるディーゼル発電機がJREオススメでなく
IHI原動機の6NSE-G(N-DMF18HZ-G)だったら笑える。 DF200に、転換クロスのアルミ製客車を牽引させれば良かったんじゃないのか。
通勤電車ならともかく、電気式気動車なんて少数生産の高級品を輸出しようとするなんて、何考えてるのよ。 >>220
おいおい(笑)
ブログ見ればわかるが高木は嫌韓だぞ? >>227
日本の車両メーカーにアルミ客車の製造ノウハウなんかない。 ミャンマーの経済活動は既に再開されている。
欧米が経済制裁しようと、ミャンマーと欧米の貿易額なんて微々たる物だから何の影響も無い。
何事も無く国が回ると思う。 少なくとも丸紅受注分はもう金受け取ってるので引き渡される。
ただ三菱商事分はひっくり返されるかもな。 冗談なく三菱商事受注分は反故になりそうな空気になってきたな。 3月改正で運用終了した、JR東のキハ40・47は、問題なくミャンマーに行くようだが。 武器弾薬なら兎も角、鉄道車両なら輸出しても大丈夫だろ。
三菱商事ホームページでは、新車246両を690億円で受注した、と書いてあるね。1両2.8億円だけど、高過ぎるだろ。
ミャンマーは鉄道車両工場が有るんだから、自国で車両を量産すれば良いんじゃないの。 YouTube見てると線路際の排水溝の整備とか重軌条化とか日本の支援は進んでいるみたいだ
中国規格標準軌の路線ってミャンマー内の建設は始まってるの? 名古屋港に長年放置されてた車両が輸出されたけどミャンマー行き再開かな?
それとも他の国?