【改行】カシオペアから見えもの6【御免】
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カシオペアの音楽について多角的な観点から
推察し、新しいあるべき姿を見出そうとする
事を目的としているスレッドである。
直接的にはカシオペアに関連しない記事など
何を書いても自由だが、最終的にカシオペア
について結び付ける努力はして欲しい。
また、趣旨などハッキリする文章にして貰い
たい。話がキチンと伝わるように務めれば、
話の「甘い果実」を食べる事が出来る筈だ。
※前スレ
【改行】カシオペアから見えもの5【御免】
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/fusion/1612135974/ 黄金に輝くMarble状のスライム、それは最高のMaterial
その香りを嗅げば目の前に広がるTwinkle Visions、そいつをひとナメすれば脳天を駆け抜けるLucky Stars
大好きだよ清美… 開いてないけどサムネがテコキで抜いてみた!に見えた 16分音符が基調のカッティングだけが
高い技術だと思っているならば、それは
おかしな話だ。
俺はこの音楽を聴いて「上手いな」とは
思うものの、退屈さを感じた。
それは野呂のカッティングとも
共通する。 擦過音でハクを付けようとするのは
悪くはないが、それも多過ぎると
果たしてこの音楽は「間が持たない」
演奏家のものではないか?とすら思える。 カッティングをしていなくても
勝手に聴く側が想像して聴いている、
野呂はそこでは弾いていないのに、
聴く側がノリノリでエア・ギターで
カッティングを弾く真似をする、
そういう「技術」が野呂にないんだよ。 「世代を繋ぐハブになりたい」
お前らはそういうものから切り離され
たいと思ってるんだろ。
俺は神保の音楽は正直疑問だが、
考え方には賛同する。 市民フォーラム的なものに
お前らが参加する。そこでの言語
空間では演奏者も聴衆も同等だ。
つまりは言論を用いて、
お前らの質も試されるんだよ。
そうなったら、カシオペアファンの
馬脚が露呈されて恥をかくだけ。 世代間からは分離したい。
「俺たちだけの空間」で悦に入りたい。
そこで出鱈目三昧をやりたい。
こんな奴等に市民フォーラムなんて
無理だろ。 「こんなイメージの音楽が
聴きたい」
「あまり馴染みの薄いコラボの
音楽が聴きたい」
「こういう体制、設備、人員配置を
したら、どんな音楽になるだろ」
お前らの意見には上記のような
ワクワク感がない。 「他のあんな音楽はクソ」
「鳴瀬辞めろ」
「あんなのカシオペアじゃない」
「大高にセクハラ・モラハラ」
こんなんしか言えない人間の
集まりがカシオペアファンだ。 医者に行かずにただ漏らすだけ。
お前ら赤ちゃんか。
自分で痛み苦しみを判断出来ないのか。
だから駄目だと言っている。 ウンチ爺に言ってんだけど、反応するってことはアンチ爺はやっぱりウンチ爺だったのか。 アンチ爺が勝手に反応して誤字って発狂しててウケる
やっぱりウンチ爺だったのか https://youtu.be/zTRy4cljF20
これを野呂に人前でやれとは言わないが、
一人で田舎の家でなら、こういう曲も
出来るだろう。
そういう、醸し出しがまるで
感じられないんだよ。
それが問題と言えば問題。 近所の農家の人に来てもらって
しんみりとしたギターと酒でもてなす。
派手なギターはライブでやりゃあいい。
その派手さの中に、何か不思議な感情が
想起出来たなら。 https://youtu.be/zwFRmt-xGqA
こういう演奏に全く興味はないんだが、
ある意味面白い事に気が付く。
このギター弾きは、爪で弾いているんだ
ろうか。そこはよく分からんが
野呂は指で弾く時、ピックを口に咥えたり
するだろ。
それが面倒臭いから、エレキでも指でのみ
弾こうとしたりする人もいる。
或いは、ピックから指弾きに変える際
指の股に素早く挟む人もいる。
制約を個性に変える、という事だ。 「何でも出来る」という万能感は
子供特有のものかも知れない。
お前らを見てそう思うよ。
まるで子供だ。 そんな子供の大好きなものって
何だろうなあ、おい。
だから駄目なんだよカシオペアファン。
歳を取れば取るほど駄目になってく。 おかしなもんで、
カシオペアファンはカシオペアの
連中が「どんな音楽も一流」だから、
他の音楽家は「一段下」と言いがちで
俺からすれば「野呂も大変だな」と
同情はせざるを得ない。
お前らは何かの強迫観念に駆られて
「カシオペアは神なんじゃ!」
「他の音楽は下らないんじゃ!」
と言っているのか? ならばその「強迫観念」とは何か
というのを知る事は、カシオペアの
音楽を知る事ではないか、
突き詰めれば。 「出鱈目・自堕落の為の免罪符」
という言葉がキツければ、
「ピーター・パンの為の音楽」
とでも言おうか。 まず、カシオペアの音楽が現代に
於いて新しいか古いかは関係ない。
その音楽を聴いたならば若い頃の
時代・場所・空気を思い出される、
というもの。 これだけの要素なら、
「懐かしい音楽を聴く」というだけで
別にカシオペアファンを取り立てて
これに当て嵌め限定する必要はない。
「カシオペアファンだけが懐古趣味」
ではないのだ。 問題は、その音楽を聴くと何故か
カシオペアは凄いと息巻き、
他の音楽は誹謗中傷し、
自分は「分かっている民」
「ニュータイプ」だと威張る、
という事。 カシオペアの音楽はある意味
生活感からは離れた抽象的な音楽で、
「来るべき未来」を当時の形で
具現化したものなんだろ。
だから、CDジャケットにメンバーが
映っていると、結構多いだろ、
上を見上げるポーズが。 「未来はどんどん素晴らしく、
楽しいものになる筈だ」
だから、それを実感させたのは、
カシオペアファンにとっては
カシオペアの音楽なんだろ。 だが、
「未来は素晴らしいんじゃ!」
という言葉に依存し過ぎては、
「じゃあ、俺も頑張ろ!」には
なかなか結び付かない。 ただ「素晴らしい未来」を見つめていたい。
嫌な事や現実は見たくない。
大人なんかなりたくない。
という、50代60代。 ところが、歳を取れば取る程、
現実は色々な問題を突き付ける。
残念ながら、若い頃のようには
いかない。 カシオペアファンにとって、
カシオペアの音楽が否定される事は
自分の人生が否定されるのと同じ。
だから、他の音楽が持ち上げられるのは
我慢が出来ない。
相対化がまるで出来ない。 歳を取れば取る程突き付けられる
現実から遠ざかる為の音楽。 俺の知ってる近所のネトウヨに
似ている。
「幸彦、仕事探してとは言わないから
生活だけはキチンとして!母さんもう
耐えられない」
「お前は英霊がどんな気持ちで
散っていったか解っているのか!
いないだろ!この反日野朗!」
現実逃避の屁理屈を探しているだけ。 そう言われたくないなら、
もう少し言葉の組み合わせを
構造的にする努力をしたらどうか。 口だけで、
本気で日本の事なんか考えていないんだよ。 >>52
この「日本」を「カシオペア」に
置き換えたものがカシオペアファン。 https://youtu.be/NmiRyRZDhQ0
https://youtu.be/6cMrTgpcGsU
この人は日本のJAZZ評論家からは手厳しい評価を受けているようだ。
「JAZZをアカデミックなものにし過ぎる」「JAZZを殺した」というような。
だが、この人が出て来る前にJAZZはすでに「死んで」いて、
この人が必死に生き返らそうとしているがそれに失敗しているというのが
実情なのではないかという気がする。
「歴史保存会」のような、クラッシック音楽のようなものに
JAZZを変えようとしているのではないか?という意見に関しては、
それはそう思うが、これは立川談志が行おうとした落語を現代で生きたものにする
という取り組みと同じなのではないか?
やはり、この人が「殺した」のではなく、「蘇生術」に失敗しているだけ
という感がどうしても拭えない。 どうしても彼の説明が教条的に聞こえてしまうのは、仕方がないと言えば
仕方がないだろう。これはカシオペアの音楽が「好きなようにやるべき」
という前提なのに対して、彼は「こうせざるを得なかった」という音楽を
やっていて、その意義や歴史をどうしても通さなければならなかったからでは
ないのだろうか?
それにしても、このリズム・ギターはジプシー・スイングとかなり似通っている。
アメリカとヨーロッパと、インターコンチネンタルな共通性が垣間見えて面白かった。 「JAZZはこうあるべき、あああるべき」と評論家は口にする。
それが何らかの社会的人文的財産になるのは良いことだ。
だが、彼らは恐ろしくそれは「個々人の問題」にしてしまう。
「あの人は素晴らしいが、この人はダメ」
「その理由は人生のバックグランド違い」
これで終わってしまうのであれば、その素晴らしい人が
亡くなってしまえば、音楽は終わってしまう事となる。
極端に言えば、マイルス・デイビスが死んだら
JAZZは終わってしまうというのと同じことだ。 それをより安易に行っているのがカシオペアファンなんだよと
俺は言っているだけだ。 勿論、
「ウィントン・マルサリスのやり方は保守的すぎる、
JAZZというのは革新的運動体なのだ」という音楽家が出て来ても
それはそれで結構な話だ。
その保守という壁が厚ければ厚いほど、投げたボールが
当たって跳ね返る力も強くなるというものだ。
その緊張感が革新側にある場合において、保守と呼ばれる
音楽家も冥利に尽きるだろう。 カシオペアファンは「その壁自体が消えてなくなれ!」
という話になってしまうから、おかしな方向になってしまうのだが。 俺がJAZZというものをあまり好きになれない理由はここにある。
JAZZ音楽が属人的・個人的なものに過ぎないのであれば、
JAZZ評論もかなり私的・個人的な趣味の世界でしかなく、
それはもう、評論でも何でもないということになってしまう。
その音楽から何を見出し普遍性を得るのか?がない以上、
やはりJAZZ評論もJAZZの一流奏者が亡くなれば終わりだろう。
そういう音楽はあの世でやるべきだと俺は思う。 だから、マルサリスの「歴史探求」的なJAZZ音楽の構築に
ついては、その基本路線は俺はむしろ好きだ。何となく違和感が
あったり、何となくしっくり来ないという人が出て来ても
それは仕方がない事なんだが、
それはJAZZが一遍「死んだ」からに他ならないからだ。 スカトロ教えてよ
ウンチ爺オススメのスカトロは最高だからな そのカシオペアファンを煽る文章を懸命に書いている輩もキモい 懸命になんか書いてないよ。
数秒で完了。
やっぱキモいね。 俺はカシオペアファンじゃなくてスカトロファンだからスカトロ教えてよウンチ爺 そうだね、カシオペアの話するやつも気持ち悪い
だからスカトロの話しようぜウンチ爺 「バルセロナの夜」はいい曲だと思う。
それ以外の曲では正直あまり響かないが、
そんなことを言いたいんじゃねぇ。
音楽というのは生身の人間のやることで、
だからスリリングで面白いんだろ。
その生身の体が不完全だったり、不全を起こすからこそ
音楽の演奏がより存在感を増すんだろ?
「もっとも素晴らしい人はいつも最高の理性でもって、
最善の行動をするはずだ」
ならばプーチンはどうだ。
それと同じことを野呂に課そうとしていることに
何故気が付かないんだろ? ちくま学芸文庫は時々その昔の高校参考書を文庫化する。
遠藤嘉基・渡辺実著『着眼点と考え方 現代文解釈の基礎』を読む。
受験生の頃に戻って例題や問題の文章を読む。
中には大人になってから作品全体を読み込んだものも多いが、
それでも高校生の為のピックアップが非常に練られている。
いや、改めてそう感じるようになったのは大人になったからで
あって、受験生の頃は正直言って「国語なんて日本語読めれば
解けるだろ」「難しい問題なんてのは嫌らしい重箱の隅を突く
だけのもので、解釈の王道ではないだろ」
という感想しかなかったから、現代文は正直苦手だった。 大人になってから、解釈というものの意味が変わった。
「読解なんてセンスだよ」という他人も中にはおったのだが、
考えればそれは馬鹿げた話で「受験で自分のセンスを問われる」
なんて事はあり得ない。
お前らのセンス、つまり「カシオペアを聴いているから俺たちは
センスがいいのだ」なんてのはつまらない話だ。「くだらない」んだよ。
勿論、「好き嫌い」「嗜好」「個性」という意味では大事にしたらいい。
だがそれが「客観的な音楽性」なんていう見地からでは、そんなの何の
意味もないだろ。
それは「好き嫌い」ではなく、「どういう音楽か?」の筈だろう?
現代文読解にそれを当てはめると、
それは「俺のセンス」ではなく、「この文章の趣旨は何か?」の筈だろう?
お前らのくだらなさは、自分たちの「好き嫌い」「嗜好」「個性」そのものを
一般抽象化して「これがカシオペアの音楽の凄さだ」と言っていしまって
いることだ。
お前らに「カシオペアの音楽」がどういうものかなんて一生分からない。
まして、
日本語の読解なんて、何をかいわんや、である。 「カシオペアの音楽は高尚だ、
何故なら俺が好きだから」
は本来お前らにとっても受け入れ
られない筈だろ。 だってカシオペアよりメガヒットを
出している音楽家なんて吐いて捨てる
程いるし、
そういうのに関しては
「聴き手の堕落」をお前ら嘆くんだろ。 バブルにもそりゃ、色々な人が
いるんだろうが、
ここで見る限りは酷えのしかいない。 ウンチ爺がまた気持ち悪いカシオペアの話ししてる
だから駄目なんだよウンチ爺 もっと人気のあるジャンルの音楽ならアンチがいるのは理解出来るけど何でまたわざわざカシオペアなんかのアンチになるのか全く理解に苦しむ それはカシオペアファンが勝手に
アンチ認定をしているだけだから
だろう。
俺は自分がアンチだという認識が
まるでない。 勝手に決め付けて、勝手な事を言う。
勝手なる世界観に於いては
「俺の好き好きだろ」で完結する。
それなのに、勝手に自滅してしまうのは
お前らの考えが個人的な「好き好き」を
超えて他人に干渉し、
間違うからじゃないのか? それはある意味カシオペアを
中心とした「ファシズム」ではないか?
俺はそれに反対しているだけで、
カシオペアの音楽が地上から消え去れ!
とか言っている訳ではない。 カシオペアの音楽は果たして文化と
して後世受け継がれるものなのか?
一時の浅はかな好事家の慰みもので
終わるのか?
という所を問うているだけ。
但し、カシオペアファンについては、
そういう気概もないのに馬鹿みたいに
虚勢を張る人々として、前者の範疇には
入らないだろうな。 カシオペアの音楽が一遍消えて
それを再生しようとするのには
もの凄いエネルギーが必要だし、
何よりオリジナルと違うものとは
分かっても、どれだけ違うのかが
分からずに「果たしてこれは
リバイバルなのか?」となり易い。
日本語が一度消えてみんなが英語しか
話せなくなった時、
「俺たちは日本人で、俺たちの
言葉を使うのだ!」とアイデンティティに
目覚めたところで、それは元の日本語と
似て非なるものになる?
というのと同じ。 カシオペアファンの中からは、
「これは俺たちの手で、俺たちなりに
残さなきゃ」とならない。
今、カシオペアが存在して、
自分の音楽活動と相互比較して
違いがまだ確認出来るにも関わらず。
そしてまた、違いがあるにせよ、
「これが根本中の根本」と、要諦を
得易いにも関わらず。 野呂のアコギの何処に駄目出しを
しているのか。簡単な話だ。
野呂は無理矢理にアコギをエレキの
ように弾こうとするからだ。
エレキもアコギも特性が同じなら、
わざわざ持ち替える必要がない。 バンドサウンドとしてのアコギを
考えた時に、非常に分かり易いのが
パット・メセニーだろ。
アコギとエレキの使い分けが
非常に明確だ。
野呂なりの、バンドサウンドと
しての野呂のアコギはどのような
ドライブ感が合うだろう? こういう視点を持たない限り、
野呂のアコギは
エレキの延長、
ガシャガシャで汚い、
そして個性のかけらもないだろう。
これの何処が批判なのか。
まあ、上記3点が野呂の個性だと
いうなら認めはするが、それは
単なる「野呂のアコギは大した
事ない」という個性が認められただけ。 それを蕎麦屋の中華そばのような
不思議な存在と見るかどうか、と。 >>88
なるほどウンチ爺は最初からウンチの話しかしてなかったのか
ウンチの話しかできないウンチ爺が無理して知ったかぶってカシオペアの話なんかするからややこしいことになったんだよな
そうやってウンチの話だけしてればいい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています