>>754
米が手に入らなかったどころか集積地でした

>大坂の港に日本中から米が集められた
>米を置く蔵屋敷が130以上立ち並んだ

大阪は何故「天下の台所」と呼ばれたのか? 大坂商人たちが生み出した文化と街
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_01257/
オランダ人宣教師のアルノルドゥス・モンタヌスが16世紀末から17世紀の日本事情をまとめた『日本誌』には、堀に囲まれた徳川時代の大坂城が詳細にスケッチされている。

藩ごとに集まった年貢米は、すべて藩内で消費されるわけではないから、余剰分は売り払って換金せねばならない。そこで海運に恵まれ、航路もきめ細かく整備されていた大坂の港に日本中から米が集められた。天保年間(1830~1844)には、米を置く蔵屋敷が130以上立ち並んだという。蔵屋敷までの輸送に便利なように堀川の水運も整備され、蔵屋敷の敷地内まで船が引き入れられ、米倉に米が蓄えられる。こうして、ますます物資が集まるようになったのだ。