何故、魏は大国でありながら呉と蜀に苦戦したのか5
夏侯嬰は自分が守った恵帝の息子達が始末されるのをどう見ていたのだろう 神々によって魔界に押込められた魔族を救わんと侵攻していた 世界の危機にだけ現れ、世界を救い去っていく勇者は人間にとって都合がいいだけの存在であり、平時には疎まれる >>541
まあ太平洋戦争とか正に強大なドイツとの同盟や日ソ不可侵条約を当てにして無駄に近隣国家に戦線を広げてしまったから日本は正に敗戦から学ぶ必要はあるわな >>529
正直陸家や呂家が孫家を脅かしかねないくらい力持ってたから二宮事件の頃には孫権の皇帝としての権力はまあ怪しいもんだよな
陸遜の憤死とかももとを辿れば孫権の部下に対する不信感が来るとこまで来ちゃったんやろし 敵は3国の他2国以外にもあるから、そっち方面の戦力も必要だしな
内部や周辺の異民族とか >>563
陸遜を憤死させ、多くの豪族たちを処刑・流刑できるぐらいの力があったのだから、全然怪しくはないだろ > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 >>565
歴代の皇帝もソ連のスターリンも常に反逆を恐れていたし
処刑や投獄も実は日常に潜んでいるからね >>564
三国志で残る敵は呉だけと言っている時ですら
関中の10の軍閥の合計で10万、迎え撃つ曹操ですら10万だから
遠征に出せる軍と同等の兵を出せる勢力が普通に残っているんだよね
漢中も蜀も弱いとはいえ数万以上の軍は出せるし
呉蜀以上の大乱と言われたとくはつじゅきのうもいるし 呉は兵士人民が豪族についているし皇帝と言っても盟主に近い >>562
ロシアは平気で裏切るのを繰り返しているのだから不可侵条約なんて
信用する方がおかしい >>531
習鑿歯は襄陽出身だけど蜀臣の子孫。
このエピソードとしては大人物に見出だされた方が箔が付くので諸葛亮じゃね また侯 国で は現在 の君主 に対 して 「侯 」,既 に死去 した君主 に 「公」 を用いる例 も王世 民は報告 している。 爵号 として 「公」 を用 いるのは,西 周期は王の卿士 であ り,春秋期 になる と宋 ・秦以外 は小 国が用いてい るという。 そ スレタイ読めないバカがメモ代わりに使うスレはここですか? 魏って、呉攻め、けっこう失敗してるよね。川のせいか >>579
親も阿呆なら子はもっと阿呆だったという話でしょ >>571
>>512にもあるように張悌と諸葛亮は接点ないので
ロジックに無理がある REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 あれ?実際に皇帝になっていない人物に「皇帝」号を贈った最初って曹丕だったりする?
哀帝・桓帝・霊帝の父などには「恭皇」などの号を贈られているが、「皇帝」ではなかったようだからな・・・。
ちゃんと調べてないから違うかもしれない。 >>587
劉邦の父の劉太公は太上皇(太上皇帝)になってるので
これを皇帝扱いするならこちらの方が先では >>588
前漢・後漢ともになんとか皇にして、帝はつけていない
やはりつけられない事情があったのか
求盗みたいな役人みたいに盗賊を求めるの省略なのか 魏から錦旗もらってきたらたちどころに邪馬台国が有利になるほど合戦はナイーブなものでもないと思うがいかがですか? 孫権の呉王は魏ないし漢のどちらに由来するものか、と書きましたが、どうやら蜀漢的には、孫権は漢王朝によって呉王に封建されていたようです。 二王が直前の二つの王朝の後裔であることに議論はないものの、三恪については、これを二王を遡るさらに三つの王朝とするのか、三つ目の王朝のみなのかで、必ずしも明確とはなっていない。 『通典』巻七四に見える西晋武帝の泰始三(二六七)年の奏文によれば、二王を漢・魏の後裔、三恪を夏・殷・周の後裔として、合計五代の王朝と考えているようであるが、同時代人の杜預が『春秋左氏伝』襄公二十五年に注したところでは、「周王朝は天下を得ると、夏・殷二王の後を封じ、また舜の後を封じて、これを恪と呼んだ」としており、合計三代の王朝と考えている。もっとも、後世へ行くにしたがって、次第に合計三代と考えるほうに収束されていくようである。